ミシェル・ペトルチアーニ
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ペトルチアーニはフランスのオランジュでイタリア系フランス人の家庭に生まれた。遺伝的原因から、生まれつき骨形成不全症という障害を背負っていた。この障害のため、彼の身長は成長期になっても1メートルほどにしか伸びず、骨はもろく、またしばしば肺疾患に苦しめられた。同年代の少年が熱中するようなスポーツに加わることはできず、ペトルチアーニの関心はもっぱら音楽に向けられるようになった。ペトルチアーニは特にデューク・エリントンの音楽を好み、ピアニストになりたいと願うようになった。そこでクラシック・ピアノを習い始め、何年も練習を続けたが、その一方でジャズから心が離れることはなかった。
ペトルチアーニは13歳で最初のコンサートを迎え、18歳の時に初めてトリオを組んだ。彼の骨は非常にもろかったので、演奏席までは他人に運んでもらわねばならなかった。またペダルに足が届かないためペダル踏み機を使わねばならなかったが、腕は標準的なサイズであったことで、鍵盤を弾くことができたのである。その天才的な演奏ぶりは広く注目を集めた。
1982年、ペトルチアーニはアメリカへ渡った。アメリカで彼はチャールズ・ロイドのバンドに参加するなど、いっそう積極的に演奏に取り組み、1980年代から1990年代を代表するジャズ・ピアニストの一人となった。1986年にはウェイン・ショーターとアルバムで共演、また晩年のディジー・ガレスピーとも共演している。
ペトルチアーニはフランス人としては最初に、名門ジャズ・レーベルのブルーノート・レコードと契約したピアニストである。1994年、レジョン・ドヌール勲章を受章、2002年6月にはパリ18区の広場が「ミシェル・ペトルチアーニ広場」と命名された。
ペトルチアーニは3人の女性と関係を持った。 最初の結婚はインディアン・ナバホ族出身のエルリンダ・モンターニョ。2度目の結婚はイタリア人のピアニスト、ジルダ・ブッタ(Gilda Buttà)。ペトルチアーニは2人の息子の父親となったが、アレクサンドル(Alexandre)は父親と同じ障害を持って生まれた。
ペトルチアーニはイタリア語をとても流暢に話すことができたため、イタリアでのコンサートではアナウンスを自らイタリア語で行った。
ペトルチアーニは、若い頃から体質上「寿命は20歳程度まで」と言われていた身だった。実際にはそれよりはるかに寿命を長らえて活躍したが、ツアー先のニューヨークで急性肺炎を起こして死去した時は、36歳の誕生日から10日足らずであった。彼の遺体はパリのペール・ラシェーズ墓地内、フレデリック・ショパンの墓からほど近い場所に葬られた。
2011年、マイケル・ラドフォード監督によるドキュメンタリー映画『情熱のピアニズム』が製作される(日本公開:2012年10月13日)。幼少時から死の直前までの演奏風景や日常を撮り溜めた貴重な映像を中心に、家族や音楽仲間らの証言によって構成されている。第37回セザール賞ドキュメンタリー部門にノミネートされるなど高い評価を受けた。
年譜
- 1962年12月28日 - トニー・ペトルチアーニの三男としてフランスのオランジュに生まれる
- 1966年 (4歳) - テレビでデューク・エリントンを見てクラシック・ピアノを習い始める
- 1968年 (5 又は6歳) - オランジュ古代劇場にてカウント・ベイシーを聴く
- 1968年 (6歳) - モンテリマールへ引っ越す
- 1970年代初め - ダンスホールで初めて演奏する。ギャラはオレンジ一つ。
- 1975年 - ドローム県、クリウスクラ・ジャズ・フェスティバルに出演、プロ・デビュー。スペシャル・ゲストとして参加したクラーク・テリーに認められる
- 1977年 - モンテリマール劇場で行われたケニー・クラーク、ダニエル・ユメール、シャルル・ソードレーのツアーに一部で参加する。このときダニエル・ユメールからアルバムを作ろうと誘われるが、父親がまだ早いと断る。
- 1980年7月 - グランド・モット・フェスティバルに参加する。ビル・エヴァンスに会う。
- 1980年 - パリで最初のアルバム『Flash』を録音、レコード・デビューする
- 1981年 - カリフォルニアに旅立ち、友人のロックス・ドロハートによる紹介でビック・サーにあるエサレン研究所にて住み込みで働く。ここでチャールズ・ロイドの妻ドロシー・ダールに出会ったことにより、ロイドとの演奏活動が始まる。
- 1981年 - チャールズ・ロイドとサンタバーバラのロベロ劇場にてコンサートを行う。マスコミにロイドをカムバックさせたフランスのピアニストとして取り上げられる。
- 1981年(18歳) - インディアン・ナバホ族出身のエルリンダ・モンターニョと結婚する
- 1981年-1982年 - リー・コニッツ(アルト・サックス)と欧州公演を行う
- 1982年7月 - チャールズ・ロイド・カルテットにてモントルー・ジャズ・フェスティバルに参加する
- 1982年 - チャールズ・ロイドとパリ・ジャズ・フェスティバルに参加する
- 1983年 - ニューヨークの「クー・ジャズ・フェスティバル」にソロ・ピアノで出演する
- 1983年 - フランク・カッセンティ監督の映画『Lettre A Michel Petrucciani』がカンヌ映画祭に出品される
- 1985年 - チャールズ・ロイド・カルテットから脱退する
- 1985年 - エルリンダ・モンターニョと離婚する
- 1985年 - ニューヨークに移る
- 1985年 - フランス人として初めてブルーノート・レコードと専属契約し『ピアニズム』を録音
- 1993年 - イタリア人ピアニスト、ジルダ・ブッタと結婚するが、3ヶ月で離婚する
- 1994年 - フランスに戻る
- 1994年 - フランス政府からレジオンドヌール勲章を贈られる
- 1997年11月 - 南青山「ブルーノート東京」において来日公演
- 1998年2月 - インターネットでオンライン・インタビューを行う
- 1999年1月6日 - ニューヨークにて肺感染症に冒され、マンハッタンのベス・イスラエル・メディカルセンターに入院、他界する。36歳
- 1999年1月15日 - パリのサン・ロック教会で葬儀が行われる