フアト・パシャ
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人物略歴
タンジマート後期を代表する実務官僚(キャーティプ)[1]。
オスマン帝国で最初に設立された医学校(1827年設立)を卒業したのち、外交官として活躍した[2]。タンジマート改革を始動させたムスタファ・レシト・パシャに見いだされて外務大臣職を務め、1861年には大宰相に任じられた[2]。その後も常に政府高官の要職にあってレシト・パシャ死去後の政界を、同い年の盟友アーリ・パシャと共に担い、地方王朝の分離を阻止すべく帝国の再統合に尽力した[1][2][3]。第二段階に入ったタンジマートは、この2人を中心に新法典、教育制度、土地法を核とする踏み込んだ改革政策が進められた[3][4][注釈 1]。1867年、スルタンのアブデュルアズィズにしたがってヨーロッパ諸国を歴訪したが、帰国後は病に伏した[2]。1869年、療養先の南仏ニースで死去した[2]。
