19世紀のランド地方の風景。ミュゼ・ド・ボーザール・ド・ボルドー所蔵
ランドのヒツジ飼い
ランドの森の一部は、古来からのままである。ガスコーニュの海岸のいくつかの地区は既に約2000年前に森林となっており、それは20万ヘクタールを占めていた。これらの森林は、ラカノー 、アルカション 、ラ・テスト=ド=ビュック 、ビスカロッス 、マランサン の近郊を覆っていた。この森林で実施されていた初期の樹脂抽出(en )技術は、ほぼ今日知られている技術と近いものだった。広範囲にわたり樹種としては固有種のカイガンショウが多くを占めていた。
一方、現在ランドの森を占める大部分は19世紀まで羊飼いが暮らす湿地だった。この時期の歴史はランド地方の最後の小作農の姿を収めた写真に記録されており、竹馬 を使うことも羊飼いの普通の生活の一部だった。人々は農業と畜産によってランドの土地から生活の糧を得ていたが、大規模な植林によってその生活には終止符が打たれ、彼らは姿を消した。ランドの土地に新たな価値を与えようとする試みは幾度か失敗したが、最終的にはランドの平地を覆うようにカイガンショウの苗が大量に植林された。カイガンショウはこの地域に完全に適応していたので、この策は驚くべきものではない。
森をつくるという意向は、19世紀に同時に噴出したいくつかの理由のためであった。第一は、村々を脅かす海岸砂丘の伸張を食い止めることであった。有名な例として、スラックの教会は押し寄せる砂で埋まってしまった。カプトー=ド=ビュック地域で砂を食い止めようとしたが、植林で砂丘の伸張を止めるというやり方を広めることができずに地元の小地主たちは急速に資金を失った。建設技師であったニコラ・ブレモンティエは、この計画について知ると、海岸で植林を試み好ましい結果を得た。
パリで影響力を持つブレモンティエは、ランド地方の海岸に植林をする必要を政府に確約させる術を知っていた。ついに、1857年6月19日法 (fr )が施行された。この法律が農耕・遊牧の暮らしへの鐘声を慣らし、現在知られているランドの大森林が誕生することになったのである。
同じやり方で、当時言われていた『湿地を浄化し衛生条件を改善する』のに、内陸でのカイガンショウ植林は不可欠とみなされた。しかし当時の人口が調査されていなかったため、同意は得られなかった。現在でも一部の人々が言うように、カマルグ を含むフランス南東部の牧畜地帯では、おそらくこの理論は良いとはみなされないだろう。
19世紀後半に植えられた第一次植林のマツは、20世紀初頭に成木となった。松脂の樹皮抽出がランド・ド・ガスコーニュ全体に広まり、地方の都市化と産業化をもたらした。テレビン油 やロジン に使われる、ランド・ド・ガスコーニュの『白金』抽出のため、何千ヘクタールものマツ林が開拓された。
しかしこのマツ林は、ランド地方の規模に対する包括的な物差しのないまま少しずつ植林されていった。マツは巨大で、非常に密集しており、不確かな方法で分配されていた。20世紀半ば、ランドの森が大火で被害を受けたのは必然的なことだった。最も有名な例は、ボルドーとアルカションの間の何千ヘクタールもの森が焼けた1949年8月の火事である。1950年、森全体の50%が煙で枯れた。ただちに失われた森の代わりとして、最初とは別の方法で第二次植林が行われた。植林は合理化され、マツは線状に植えられた。広大な防火線は、火事の延焼を回避し、かつ火事が起きた際には中心に消防士が達するのを可能にした。森は、今日知られるような姿となった。しかし樹脂抽出産業は徐々に衰えていった。外国産との競争、重労働の割に高い値がつかないこと、そして特にテレビン油とロジンの代わりになる石油製品との競争が原因であった。1990年、2000年以上続いてきた樹脂抽出は、ランドの森から決定的に消滅した。ランドの森の役割は、製紙業の原材料になった。ミミザン とタルタス に、巨大な木材加工工場がある。
1970年代、森の一部は従来の性質を失うことなく、地元の農業開発(特に穀物生産)に用いられた。
現在ランドの森は約100万ヘクタールに及び、その9/10にはカイガンショウが植えられている。しかし森の南西部には、氷河期後の樹木の遺構が残っている。マツ、オーク 、ハンノキ 、カバノキ 、ヤナギ 、ヒイラギ である。これらは主として水路に近接して生えていて、増水すると流される。この森の原型は、中世の中頃までにできたと推測されている。この時期から気候が定まり、より湿潤にそして涼しくなり、特に開墾は農耕生活の延長で展開されていた。やむをえなければ、16世紀から18世紀の間に建設資材や燃料として木が切り出され、森が後退していたのである。