リダニヤの戦い
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戦闘の推移
トゥーマーンバーイはサラヒア(Salahia)まで進軍することを決意し、そこで砂漠の行軍により憔悴したオスマン軍と遭遇したが、首長らの反対に屈し、カイロ郊外のリダニヤに陣を敷くことにした。オスマン帝国は戦闘をすることなくリダニヤに達し、1月22日に戦闘が始まった。トゥーマーンバーイは自らオスマン軍の歩兵に切り込み、セリム1世の幕営にまで達したが、結局エジプト軍はナイル川の上流へ敗走した。オスマン軍はカイロに侵入し、暴虐の限りが尽くされた。翌日到着した宰相は兵士らの狼藉をやめさせるため、カリフであるムタワッキル3世に慈悲を求める布告を出させたが、狼藉がやむことはなかった。数日後、セリム1世とムタワッキル3世がカイロに入城すると、ようやく略奪はやんだ。
翌日の夜、ベドウィンに加勢されたトゥーマーンバーイが再び現れ、一時オスマン軍をカイロから追い散らした。しかし圧倒的な勢力で再び攻め寄せたオスマン軍を前に、スルタンはナイルを渡ってギザに逃亡し、後に上エジプトに亡命した。
勝利に満足したセリム1世は恩赦を意味する紅白の旗を幕営に掲げさせたが、マムルークは恩赦の対象から外された。マムルークを匿ったものは死罪にすると宣言され、これにより発見された800人が斬首された。
参考文献
Muir, William (1896). The Mameluke; Or, Slave Dynasty of Egypt, 1260–1517, A. D. Smith, Elder.