七間町通
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清洲越しと名の由来
1610年(慶長15年)から始まる清洲越しの際、清洲から名古屋城下へと町ごと移転してきた。
- 名の由来: 清洲時代のこの町に、当時としては極めて珍しい3階建ての家が7軒並んでいたことに由来する。この7軒の家は名古屋へ移転後も、城下町において特権的な地位(年寄役など)を占める有力者となった。
江戸時代:碁盤割の発展
七間町通は、名古屋城下の南北の主軸である「本町通」の西側に並行する通りとして整備された。
- 町割の変遷: 当初は一つの町であったが、1660年(万治3年)の「万治の大火」の後の都市再建により、広小路を境に「上七間町(北側)」と「下七間町(南側)」に分かれた歴史を持つ。
- 商人の街: 江戸時代を通じて、呉服商、古道具商、薬種商などが軒を連ね、本町通(官道・一等商区)を補完する有力な商業地域であった。
近代:経済・金融の中心地へ
明治時代に入ると、七間町通周辺には近代的なオフィスビルや銀行が集まり始めた。
- 主要機関の立地: 大正期から昭和初期にかけて、名古屋電燈(の量の中部電力)の本社や、明治銀行の本店などが置かれ、名古屋の近代化を牽引する通りとなった。
- 建築遺産: かつては赤レンガ造りの重厚な建築物が並んでいたが、1945年(昭和20年)の名古屋大空襲により、その多くが焼失した。
戦後から現代へ
1966年(昭和41年)の住居表示実施に伴い、町名としての「七間町」は地図上から姿を消した(丸の内・錦へ編入)。 現在は「七間町通」という道路呼称が定着しており、特に錦三丁目エリア(通称:錦三)においては、飲食店やレジャービルが密集する中部地方最大の歓楽街の一角を形成している。
地理
文化・スポット
- 万治の火伏神: 通り沿いには、江戸時代の大火を防ぐために祀られた小さな祠や秋葉社が点在しており、ビル街の中に歴史的な名残を感じさせる。
- 錦三(きんさん)文化: 南部の錦三エリアでは、老舗の料亭と現代的なバーが混在しており、名古屋の夜の文化を象徴する通りとなっている。