能登国の崎山城城主であり、宇出津(現:鳳至郡能登町宇出津)一帯を拠点としていた。三宅続長の子。
天正5年(1577年)、上杉謙信の能登侵攻時に降伏し、臣従する。異説に叔父平加賀守網守とともに脱出したという話があるが、三宅の家人荒尾五郎兵衛は七尾開城後、上杉謙信側の七尾城新城主 鯵坂の取次饗応役をやっており、その一方で、荒尾五郎兵衛の娘は前田利家の側近の一族となっていた(九世祖母荒尾五郎兵衛娘)ことからこのような異説が出ているのではと考えられる。天正7年(1579年)、謙信の死後に七尾城を攻略、能登を一時的に支配するが、織田信長の軍勢に追われ越後国へ逃亡する。天正10年(1582年)5月 越中魚津城攻めで、景勝側の武将群の中に三宅宗隆の名前が見える(石母田文書)がその後、本能寺の変後に能登へ戻り、石動山門徒衆と結ぶが、佐久間盛政の軍勢に敗北、捕らえられ自害する。