中島才吉
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来歴
1846年(弘化3年)に中島庄右衛門の三男として浜松藩に生まれる。士族で[1][2][3]、幼名は謙益[2][4]。横浜仏語伝習所の第1期生として入学した[2][4]。同期には伊東栄之助や細谷安太郎などがいた[4]。伝習所では大坪才吉と名乗っていた[2]。
伝習所の第一期生の中からは第一回フランス留学生も選ばれ、中島も選ばれたものの、フランス軍事顧問団通訳として一等書記(1er interprète)に選任され留学延期となった[5][4]。1868年(明治元年)に神奈川県裁判所通弁となり、同年神奈川庶務試補訳官となり、翌1869年(明治2年)には土木少佑となり[6]、横須賀製鉄所(後の横須賀造船所)に入社[2][4]。
1870年(明治3年)4月、製鉄所所長のフランソワ・レオンス・ヴェルニーの申し出により、稲垣喜多造とともに製鉄所黌舎(こうしゃ)の教育を補佐することとなり、日本人として初めてのフランス語教官の助教授として教壇に立った[7][2][4]。黌舎は1868年(明治元年)5月に廃校となっていたが、中島と稲垣は当局に対し「新政府は昨年五月これを廃校とし、以来未だ再開の計画があるということを聞いていない。できれば今から再び生徒を募集し、雇仏人中の学識者を選んで本格的に教授を継続することが切に望まれる」という趣旨の要望書を提出し、それが認められて黌舎の再開が決定した[4]。
その後、大蔵省租税寮八等出仕を経て[4][8]、1873年(明治6年)6月から外務省の一等書記生に転じ、外交官となったのち[4]、外務三等書記官に任じられ[9]、1874年(明治7年)には正七位に叙された[10]。ミラノの万国養蚕家会議に参加するため、1875年(明治8年)から伊国養蚕公会所事務官を兼務[11]。
イタリア公使館三等書記官を経て、1876年(明治9年)にローマ領事館が設置されると、副領事に就任[12][13][14][15]。1878年(明治11年)には、ローマ領事館がミラノに移転され、初代在ミラノ領事に就任した[13][2][4]。1880年(明治13年)外務省七等出仕[16]。同年坪内安久の後任として第2代三井物産パリ支店支配人となった[17][18]。1925年(大正14年)に死去。享年80[2]。墓所は豊顕寺[1]。