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中村義長

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中村 義長(なかむら よしなが)は、室町時代の日本の武将。幼名、小太郎。藤原義綱、中村太郎、中村左衛門尉、中村日向守。中村氏第14代当主。第13代中村城主。家督を嫡男が継いだ後は入道して玄甫と名乗る。

生誕 不明
死没 大永6年(1526年11月15)[1]
改名 義長→義綱→玄甫
概要 凡例中村義長, 時代 ...
 
中村義長
時代 室町時代
生誕 不明
死没 大永6年(1526年11月15)[1]
改名 義長→義綱→玄甫
別名 中村小太郎、中村太郎、中村左衛門尉、中村日向守、入道玄甫
戒名 玄甫寺殿正田佛中大居士[1]
墓所 栃木県真岡市寺内荘厳寺[1]
官位 日向守
幕府 室町幕府
主君 宇都宮成綱→宇都宮忠綱
氏族 中村氏 (下野国)
父母 父:中村為長、母: 総本院[2](多功建昌の娘[1])
妻 室山院[2](宇都宮成綱の娘[1])
子 中村玄角
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経歴

義長の父、中村為長は宇都宮成綱より日向守を賜り重臣として重用されたが明応8年(1499年)に32歳で没し、嫡男の義長が跡を継いだ[3]。

永正6年(1509年)、義長は宇都宮成綱の命により、片角軍萱において長沼政義の軍と対峙し政義軍に討ち勝った(片角軍萱の戦い)。義長はこのとき宇都宮成綱より偏諱を受け義綱と名乗る。

永正9年(1512年)、宇都宮成綱は義長(義綱)を宇都宮中城(戸祭城)に配し、中村城を義長(義綱)の嫡男である親長(後の中村玄角)に跡を継がせた。義長は親長に家督を継がせた後は入道して玄甫と名乗る[3]。

永正11年(1514年)、常陸国の佐竹義舜・岩城由隆軍と、宇都宮成綱・忠綱軍が下野国宇都宮竹林で対峙するに及び、義長(玄甫)は軍を率いて宇都宮成綱・忠綱軍に合流、足利高基からは永正11年(1514年)、へ伊達稙宗への援軍の要請が下される[3]。(竹林の戦い)

永正13年(1516年)、義長(玄甫)は宇都宮成綱の命により、中村城から嫡男の親長(玄角)とともに宇都宮成綱・忠綱軍として下野国上那須庄浄法寺縄釣へと進軍し(縄釣の戦い)、宇都宮軍が大勝すると、下野国武茂庄 (武茂の合戦) 、更に常陸国月居 (月居の合戦)へと佐竹義舜・岩城由隆軍に追い打ちをかけると佐竹義舜・岩城由隆軍は敗走した[4]。

大永4年(1524年)、結城政朝が中村城へと攻め込んで来たが義長(玄甫)、親長(玄角)親子は結城軍の猛攻を防ぎこれを撃退する。大永6年(1526年)、結城政朝が再び中村城へと進軍してきたため、義長(玄甫)、親長(玄角)は守りを固めたが結城軍はそのまま鬼怒川を北上し、猿山へと進軍したため宇都宮忠綱がこれを迎え討ち[5]、義長(玄甫)は桑島より猿山へと進軍し宇都宮忠綱軍に合流した。中村城は親長(玄角)が守りを固めた。宇都宮忠綱はこの戦いで結城政朝に敗れ宇都宮城へと撤退した[6]。義長(玄甫)は没年よりこの猿山合戦の宇都宮軍の敗北の際に討死にしたと思われる[1][注釈 1]。

出典・注釈

関連項目

外部リンク

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