中国 宋からの渡来僧 大覚禅師(1215~1278)は1246年に来日。北条時頼の帰依を受け、1253年、時頼が鎌倉建長寺を創建するや、乞われて開山第1祖となった僧である。後に京都建仁寺に迎えられ、再び時頼に招かれ鎌倉禅興寺に入り、また各地の幾多の寺の開山を担った。
南箕輪村の久保寺開山は大覚禅師が遷化前年に行ったとされる(1277)。開基は伊那源氏の支流 諏訪大和守甫良(はるなが)とされ、寺号を地名からとり、久保庵とした。南箕輪村久保地区は、古来『供奉(くぶ)』後に『窪村』1704年~『久保村』となった。
1556年、諏訪久保(諏訪大和守甫良の18代子孫)が鎌倉建長寺の覚源恵了を迎え、中興開山。1692年、妙心寺派に属して久保寺を名乗る。
しかし、江戸時代以降、飯田城主 小笠原秀政の領地になったり、天領、私領と支配が頻繁に替わり援助者もなく、寺領乏しい貧しい寺となり幕末を迎えた。明治初期に火災で全焼後は、小堂再建して尼僧が住したが、その後無住が続き廃寺同様の状態となってしまっていた。
1922年、岡谷市湊での諏訪江音寺檀家分裂問題から、新寺創建計画が起こった。計画難航の中、長野県より箕輪久保寺の移転招致の助言を受けた湊の檀家が、箕輪久保寺の地元に交渉し、1924年に現在地(岡谷市湊)に本堂を建立、新天地での久保寺の再中興となった。
参道石段(1930)、梵鐘,山門(1962)、墓地公園(1979)と整備され、地元の寺として定着している。