神奈川県横須賀市汐入に生まれ、幼い頃に東京市赤坂区に移る。1923年に氷川小学校から、文化学院中等部に入学。当時の文化学院には、華やかな校風があり、同期には、入江たか子、夏川静枝、また恩師には与謝野晶子がいた。
文化学院時代から女優志望だったが、1927年に卒業後に家出し、友人で女優になった入江たか子を訪ねて京都へ。しかし再会できず、東京へ戻る時、三宮豊子と出会い、彼女の経営する中野町(現在の阿佐ヶ谷)のリウナというカフェで働いていたところ話題となり、偶然に親戚筋の松竹の脚本家・野田高梧と再会。その縁で1929年7月に松竹に入社し、曲線美女優としてデビューする。『ダンスガールの悲哀』(佐々木恒次郎監督)では、川崎弘子、結城一郎と共演。翌1930年、小津安二郎監督、高田稔、川崎弘子の出演する『朗らかに歩め』に助演。松竹蒲田にては『エロ神の怨霊』(小津安二郎監督)等、ナンセンス喜劇のヒロインとして活躍した。1931年には、松竹を代表するモダンガール女優となり、準幹部に昇進した。
1931年には、日本映画史のエポックメイキングー日本初の本格的トーキー作品である『マダムと女房』新妻役の田中絹代に対抗するモダンマダムに扮し、ジャズのレコードを鳴らして怒鳴り込んだ劇作家(渡邊篤)を魅惑する美貌のマダムを演じた。
その後小津安二郎監督の『また逢ふ日まで』等に助演した後、1932年に日活太秦に移り、山本嘉次郎監督の『桃色の娘』に出演。1934年に日活を退社し、舞台の世界へと転身。前進座で舞台生活をした後、1935年にフリーで女優に復帰した後、P.C.L(現在の東宝、ソニーの母体)の専属となる。
1937年、男児を出産。
戦時中から戦後まで、東京都世田谷区の成城に居住。『皇道は遥かなり』〈原題 Long The Imperial Way 〉がベストセラーとなり、映画化の話で来日した日系アメリカ人小説家の田崎花馬(Hanama Tasaki)と1951年に結婚。神奈川県の中央林間に転居。新東宝『チャッカリ夫人とウッカリ夫人』(1952年)を最後に映画界を引退。その後離婚し、洗礼を受けカトリック教徒になる。洗礼名はマリア。1972年10月23日、肺癌のため港区白金台の東京大学医科学研究所附属病院にて死去。葬儀は上大崎の聖アンセルモ目黒教会にて執り行われた。