会見県設置運動
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会見県設置に向けた取り組みと結果
以前からくすぶっていた新県構想は請願権の獲得によって一気に高まり、明治23年(1890年)の夏頃には「会見・汗入・日野3郡の島根県編入案」と「鳥取・島根両県を合併させ、会見県を新設する案」の2つが示された。特に後者の案は島根県の石見地方を広島県に編入させ、会見郡米子町に県庁を設置するものであり、同時期に石見地方から広島県への編入を求める請願がなされたこともあり、議会や内閣に対して盛んに請願が行われた。
これらを主導していた人物は元・鳥取藩家老で元・米子城主の荒尾成勲、坂口平兵衛、遠藤春彦、小西清太、野坂茂三郎(元米子市長野坂寛治の父)、小倉直人、門脇重雄などの米子地方を代表する名士達であった。翌24年2月1日には有志146名が集まって協議会が開かれ、議長に遠藤春彦を選出、会見・汗入両郡の各戸より1銭ずつ出してもらって集めた400円の活動資金をもとに本格的に活動を開始した。
この他、新県設置による利点として3〜4万円の地方税負担の減少(当時の鳥取県は島根県と比較して、地租と一戸あたりの負担が地租で8銭、一戸あたりで48銭の差が存在していた)が挙げられていた。明治24年10月には再び請願が行われたが、運動が米子地方に限られたものであり、他の鳥取・倉吉地方は総じて冷淡な反応を示し、県下全域に広がるものではなかったため、結局実現には至らなかった。