立入禁止の相州炮術調練場の空き地では、伝左衛門の許可を得て地元の農民が耕作をしており、それを佐々木卯之助が継続して許可していたことが代官江川英毅・江川英龍親子の検地により判明した。これを受けて評定所は、隠居であった父の伝左衛門、長男の菊次郎とともに、青ヶ島遠島の判決を出した。
また、職務不行き届きとして、片岡丹次郎、丹羽捨吉、神谷金右衛門が江戸所払いとなり、見廻り役の平野彦四郎、金井弥一郎、平野新蔵、桜井要蔵、松本良右衛門が牢押し込めとなった。
炮術調練場の運営は周囲の村や住民に過大な負担を強いており、それに対する懐柔工作の一環で、周辺住民へ農地の耕作を許可していたものと推測される。また、事件当時は天保の大飢饉が発生しており、卯之助の計らいは農民に感謝されていた。このため、死後、初代茅ヶ崎村長が発起人となり、追悼記念碑が建てられた(神奈川県茅ヶ崎市東海岸五丁目に所在)。