北条氏の家臣・内藤氏の分家の出身とされる。先代は内藤康行で、この養子という形で本家筋を継いだとされている。子に内藤直行(なおゆき)がいる。康行・綱秀・直行の1文字目は北条氏の当主から偏諱を与えられたものと思われるが、「康」が3代氏康、「綱」が2代氏綱の1字と、逆転している理由は不明(綱秀が養父・康行より年長であるか、氏康から「綱」の字を下賜されたかのいずれかが考えられる)。
相模国津久井城主を務め、津久井衆筆頭でもあった。この津久井領は甲斐と国境を隣接するため、重要な地域だった。これからも分かるように後北条氏の信頼は厚かった。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐では津久井衆を率いて、4月に中郡白根に駐屯する豊臣勢に攻撃している。その一方で5月に津久井城普請、6月には相模の諸地域の麦の刈り取りを指揮している。同月に徳川軍の攻撃を受け奮戦するも、北条氏の支城が次々と攻略される中でついに落城。その後の消息は不明(ともに滅亡したともされる)。
嫡男の直行は北条氏直から1字を与えられてその名を名乗り、松田憲秀の娘を妻に迎えている。小田原征伐時も岳父・憲秀とともに行動し、出奔の謀議に関わっている。その後謀反する予定があったのか、処罰されたのかは不明だが、氏直が高野山に蟄居するときはこれに同行している。