斉の中書郎の到坦(到仲度の子)の子として生まれた。幼いころに父を失って貧しかったが、弟の到洽とともに聡明鋭敏で才学があり、早くに任昉に知られて、名声が広まった。王国左常侍を初任とし、後軍法曹行参軍に転じ、尚書殿中郎をつとめた。建安郡内史として出向し、中書郎に転じ、吏部郎や太子中庶子を兼ねた。湘東王蕭繹が会稽郡太守となると、到漑はその下で軽車長史となり、軽車府と会稽郡の事務を代行した。武帝は到漑を師として敬うよう蕭繹に命じた。母が死去したため、到漑は辞職して礼の規定どおりに喪に服した。喪が明けても、菜食と布衣の生活を数年続けた。通直散騎常侍の位を受け、御史中丞・太府卿・都官尚書を歴任した。大同5年(539年)、吏部尚書となった。郢州長史・江夏郡太守として出向し、招遠将軍の号を加えられた。入朝して左民尚書となった。しばらくして、事件のため罪に問われて金紫光禄大夫に左遷された。まもなく散騎常侍・侍中・国子祭酒に任じられた。
後に病のため失明し、金紫光禄大夫・散騎常侍の位を受けて引退し、私邸で養生した。太清2年(548年)、張綰・劉之遴に子孫を託し、薄葬を遺言して死去した。享年は72。本官を追贈され、文集20巻が当時に通行した。
子の到鏡は字を円照といい、湘東王蕭繹の下で安西法曹行参軍をつとめ、太子舎人となったが、早逝した。