劉仁贍

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劉 仁贍(りゅう じんせん、900年 - 957年)は、五代十国時代軍人は守恵。本貫徐州彭城県[1]

の濠滁二州刺史の劉金の子として生まれた。儒学の大略に通じ、兵書を好んで、淮河流域で声望があった。南唐に仕えて、右監門衛将軍に累進し、黄州袁州の刺史を歴任した。南唐の李璟が即位すると、仁贍は軍権を握って鄂州武昌軍節度使となった[2][1]広順元年(951年)、仁贍は戦艦200隻を率いてを攻め、岳州に入った[3]。数年後、清淮軍節度使に転じた[4][1]後周の親征軍が淮河を渡ってくると、仁贍は寿州を固く守った。後周の世宗柴栄が帰順を勧めたが、仁贍はへりくだった言葉で謝絶した。世宗が開封府に帰ると、李重進が周軍を率いて寿州包囲を続け、寿州の南の寨を落とした。寿州の城中では餓死者が続出した。顕徳3年(956年)冬、南唐の援軍がやってきて、紫金山に寨を並べ、一部は寿州の城壁に届き、李重進の兵は支えられなくなりそうだった。顕徳4年(957年)1月、世宗は再度の親征を決定した。世宗が寿春にいたると、周軍は紫金山の南唐軍を破って、応援使陳承昭を捕らえた。仁贍は援軍が敗れたと聞いて、進退窮まり、扼腕して嘆いた。3月、世宗が仁贍を説得する使者を送ると、仁贍はときに病床にあり、降伏を決めて城内の諸軍に伝えた。行在で世宗の謁見を受け、入城して病身を養うよう命じられた。ほどなく天平軍節度使に任じられ、中書令を兼ねた。勅命の出された日のうちに、仁贍はその家で死去した。享年は58。世宗により彭城郡王に追封され、南唐の李璟から太師の位を追贈された[5][6]

子女

  • 劉崇讃(後周に仕えて、懐州刺史となった)
  • 劉崇諫(寿州を守ったとき、軍禁を犯したため、父の仁贍に斬られた)
  • 劉崇諒(のちに南唐から北宋に帰順し、尚書郎に進んだ)[5]

脚注

伝記資料

参考文献

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