加藤朝鳥
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1886年(明治19年)9月19日、鳥取県東伯郡社村不入岡(現: 倉吉市)にて[1]、父梅吉・母まつの3男として誕生する[2]。本名は信正[1][3](信三とも[2])。県立米子中学校(現: 鳥取県立米子東高等学校)を経て[1]、1905年(明治38年)に早稲田大学英文科に入学する。1909年に卒業[2]。在学中より詩歌を発表する[1]。1912年(大正4年)に「片岡伸氏を論ず」を発表し、文芸評論家となる[2]。1920年(大正9年)から1年、インドネシアのバタビア(ジャカルタ)に渡り、『瓜哇日報』の主筆を務めた。帰国後、1925年(大正14年)より立正大学で教鞭をとり、そのかたわらで評論・翻訳を手掛けた[4]。1932年(大正19年)より立正大学文芸部長[1]。
評論家としては、徳富蘇峰・坪内逍遥・島崎藤村などの賛同を得ながら、自ら雑誌『反響』を創刊した[1][4]。また、翻訳家としてはポーランド文学(英語版)の日本への紹介で知られ、ヴワディスワフ・レイモントやステファン・ジェロムスキなどの作品を翻訳している[4]。この功績より、加藤はポーランド政府より黄金月桂樹十字勲章、同アカデミー勲章を与えられている。1938年(昭和13年)5月17日没[3]。享年52歳[1]。
出典
- 1 2 3 4 5 6 7 新編倉吉市史編集委員会 編『新編倉吉市史 第3巻(近・現代編)』倉吉市、1993年、627-632頁。doi:10.11501/13324077。
- 1 2 3 4 山敷和男 著「加藤朝鳥」、日本近代文学館 編『日本近代文学大事典』 1巻、講談社、1977年。doi:10.11501/12450421。
- 1 2 「加藤朝鳥」『20世紀日本人名事典』。https://kotobank.jp/word/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E6%9C%9D%E9%B3%A5。コトバンクより2025年12月14日閲覧。
- 1 2 3 柴, 理子 (1989). “日本におけるアダム・ミツキェヴィチ紹介の変遷”. 東欧史研究 12: 59–76. doi:10.20680/aees.12.0_59. https://www.jstage.jst.go.jp/article/aees/12/0/12_59/_article/-char/ja/.
