及川恒忠
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本籍は岩手県花巻市だが、当時の住所であった東京市荏原郡駒沢町上鳥に生まれる[1]。祖先には、花巻で儒学の学問所「豊水亭」を開いた及川華山(祐忠)がいる[3]。
1908年(明治41年)3月、宮城県立仙台第二中学校を卒業、翌月に慶應義塾大学部予科第一学年に入学した[4]。1913年(大正2年)3月に慶應義塾大学部政治科を卒業、翌月、そのまま同大学の助手となった。1917年(大正6年)4月、中国事情調査のため中国へ2年間留学し、1919年(大正8年)4月からは欧州へ更に留学している[4]。
帰国後の1920年(大正9年)4月、慶應義塾大学法学部教授兼経済学部教授に就任した[1][4][5]。両学部では「支那法制論」「東洋外交史」「支那経済論」の講座を担当している[4]。1922年(大正11年)、法学部の機関誌『法學研究』の創刊に参与した。1926年(大正15年)、実業家・望月軍四郎の寄付により「望月支那研究基金」が慶應義塾大学に設立されると、及川が運営者として研究を指導している[5]。
慶應義塾大学で教鞭をとる傍ら、1929年(昭和4年)には東京高等工商学校でも非常勤講師をつとめる。同年、東京高等工商学校の学内紛糾により教員・学生の離脱が起きると、離脱派の要請を受けて及川は学校の新設に邁進した。その結果、私立武蔵高等工科学校(現在の東京都市大学)が設立されている。なお及川は、2025年現在の東京都市大学において創立者の1人として数え上げられている[6]。
1942年(昭和17年)4月、慶應義塾大学法学部長に昇進し、1946年(昭和21年)2月まで4年間在任した。1950年(昭和25年)、同大学評議員を兼任する[1]。
1959年(昭和34年)1月10日、慶應義塾大学教授在任のまま、肺気腫のため慶應義塾大学病院にて死去。享年70(満68歳)[2]。