吉見義隆
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『大乗院寺社雑事記』明応元年(1492年)4月15日条において、吉見某が足利義稙(当時は義材)の代官として、伊勢神宮に参宮しており、これが義隆であるとされる[1]。
以後、義隆は義稙が河内に出陣した際には従軍し、細川政元が起こした明応の政変によって義稙が失脚した際も、供奉して越中に赴いている[1]。
明応6年(1497年)6月末、政元との和平交渉のため、神保長誠の家臣・倉川(鞍川)兵庫助が越中より上洛し、7月14日には政元の邸宅に赴くことに成功した[4]。その後、義隆も上洛し、和平交渉に参加していた[4]。
明応7年(1498年)2月から5月にかけて、義隆の活動頻度が上がり、京都の政元や河内の畠山尚順らのもとに赴き、交渉を重ねている[1]。そして、義隆が政元によって京都に招かれると、義稙の帰京を予測した公家らはこぞって義隆に贈り物をし、親交を結ぼうとした[4]。
だが、義稙の交渉活動は、種村視久など和平反対派の妨害の中で行われたものであった[1][4]。そして、義稙も和平反対派の声に押されてか、和平交渉を断念したらしく、義隆は交渉による成果を上げることなく、6月には越中に帰国せざるを得なかった[1]。他方、政元の側でも、細川一門の細川政賢が和平に反対したこともあって、7月の段階で和平交渉を断念した[5][6]。
9月、義稙が越前に赴くと、義隆を取り巻く状況は一変したようで、10月26日に義隆は切腹させられた[1]。義隆は義稙から細川方への内通を疑われたとされる[5]。