平等寺 (京都市下京区)
京都市下京区にある寺院
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歴史
『因幡堂縁起』(『山城名勝志』所収)、『因幡堂縁起絵巻』(東京国立博物館蔵)などに当寺の創建の由来が書かれている。縁起は諸本によって内容に違いがあるが、おおむね次のような話である。大納言橘好古(たちばなのよしふる)の孫である少将橘行平(たちばなのゆきひら)は、天徳3年(959年)に村上天皇の命により、因幡国の一宮・宇倍神社に参拝し、京に帰ろうとした際に病気になった[3]。もしくは、長徳3年(997年)に因幡国司としての任を終えて京に帰ろうとしていたところ、重い病にかかったともいう[4]。
そこで行平は病気の平癒を神仏に祈り続けていると、ある夜、行平の夢に貴い僧が現れた。僧は「因幡国賀留津(現・鳥取港)の海中に一つの浮き木がある。その浮き木は衆生済度(人々を救って悟りを得させるため)に遠くの仏の国(インド)からやってきた。あなたは速やかにこの浮き木を求めて供養しなさい。そうすれば必ず病気は治る。さらに一切のあらゆる願いが成就するだろう。」といった。行平は正夢に違いないと思い、早速人々を集めて大網をもって海底を探らせ波間に光るものを見つけて引き上げてみると、それは丈五尺余り(165センチメートルほど)の等身の薬師如来の像であった。行平は草堂をこの浦に建てて薬師如来像を祀ったところ行平の病は癒え、京に帰ることができたという。また、この草堂が後の座光寺であるという[3]。この薬師如来像は天竺(インド)の祇園精舎の四十九院の1つ、東北療病院の本尊であった。行平は薬師如来像をいずれ京に迎えると約束して因幡国を後にしたが、その後、因幡国を訪れる機会がないうちに長い歳月が過ぎた。長保5年(1003年)4月8日に行平の高辻烏丸の屋敷の戸を叩く者がいた。行平が「どなたですか」と問うと「因州の僧だ」と返答があった。行平は驚いて戸を開けさせたところ、そこには因幡国からはるばる虚空を飛んでやってきた薬師如来像が立っていたという。行平は屋敷にその薬師如来像を祀ると屋敷を改造してお堂を作り、このお堂を因幡堂と名付けた。これが因幡薬師平等寺の起源であるという[3]。この時、行平の孫である光朝禅師が本願となって創建されたとされる[2]。
また、一説には薬師如来像は因幡国にあった在地豪族・因幡氏の氏寺の薬師寺(座光寺)に安置されていたものといい、行平が京都へ持ち去ったともされる。
南都における寺院勢力の強勢振りを嫌い、平安京内には官寺である東寺・西寺以外に寺院を建立することは禁止されていた。ただし、貴族の持仏堂は建立が認められていた。本寺もこれに相当する。また六角堂(頂法寺)や革堂(行願寺)のような、町堂(辻堂)の建立も認められていた。因幡堂もこれらと並んで町衆の信仰を集めた町堂の代表格である[3]。
その後、この霊験譚は平安京の人々に広く親しまれたという。また、一条天皇の耳にも入り天皇によって当寺に子院8か寺が建立されたうえ、勅願所とされ、歴代の天皇からも厚い尊崇を受け、即位ごとに祈祷が行われるとともに、「薬師もうで」といい勅使の御月参りも行われた[3]。
治承・寿永の乱の時、高倉天皇は当寺のすぐ南にある「東五条院」に住していた。当寺の南門は不明(あけず)門と呼ばれたが、これは東五条院に遠慮して南門を開けなかったからである。そこで、門前から京都駅前に至る南北の通りを不明門通(あけずどおり)と呼ぶ。ただし、その大部分が整備されたのは豊臣秀吉による天正の地割の時以降となる。
当寺は承安元年(1171年)に高倉天皇により「平等寺」と命名され、勅額が贈られている[3]。
狂言「因幡堂」や「鬼瓦」は当山が舞台で、特に大蔵流と関係が深い[4]。
年間約1,000件の祈祷の多くをがんの平癒を祈るものが占めるなど、近年はがん封じの寺として患者などから熱心な信仰を集めている[1]。
境内
文化財
狂言
前後の札所
所在地
- 京都市下京区松原通烏丸東入る上る因幡堂町728[6]