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城資永

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城 資永(じょう すけなが)は、平安時代末期の越後の武将。父は越後平氏の一族である城資国。母は清原武衡の娘。別諱は助長[1]。

時代 平安時代末期
生誕 未詳
別名 城太郎、助長(資長、助永)
概要 凡例城資永, 時代 ...
 
城資永
時代 平安時代末期
生誕 未詳
死没 治承5年2月25日(1181年3月11日)
別名 城太郎、助長(資長、助永)
主君 平清盛
氏族 桓武平氏維茂流、城氏
父母 父:城資国(助国)、母:清原武衡の娘
兄弟 資永、助茂(長茂)、坂額御前
子 資盛(助盛)、資家(助家)、資正(助正)
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略歴

城氏は桓武平氏維茂流に連なる一族で、「越後平氏」とも称され、平氏政権期には越後国における有力豪族として大きな勢力を有していた。資永はその棟梁として一族を統率し、中央政権とも一定の関係を築いていた人物である。

保元の乱

保元の乱(1156年)に際して、城氏は惣領家である平氏に属する一族として、その軍事動員体制の中に組み込まれていた。後世の伝承や二次史料の中には、資永自身がこの戦いに参戦したかのように語られる例も見られるが、一次史料に明確な記載はなく、実際には父・資國の代に平氏方として行動していた事績が、惣領である資永の名に集約されて伝えられた可能性も否定できない。資永はのちに都にあって検非違使を務めるなど、中央政界とも接点を持つ立場にあり、北国における有力豪族の筆頭として、同族である平清盛らからも一定の信頼を寄せられていた。とされている。

ただし、資永が 官位・官職(検非違使・受領など)を得た ことを示す明確な叙位・補任史料は存在しない。よって、中央政権と関係を持った在地武士 とは言えるが、朝廷官僚であったとは言えない

瀬波川鮭漁濫行事件

永万元年(1165年)1月の出来事として、(新潟県立図書館が公開している「越後」という歴史資料。出典史料名: 『平安遺文』史料番号: ①471・614、②124)「越後権大介源某,在庁官人等による小泉荘に対する侵害と小泉荘家による瀬波河鮭漁に対する妨害をやめさせ,城太郎助永の濫行を停止させる。」[2]この記述は、城太郎資永(助永)の名が史料上に初めて登場する重要な例であり、いわゆる「瀬波川(三面川)鮭漁濫行(権限逸脱行為)事件」を指している。本件は、院政期の中央権力と越後在地武士との緊張関係を如実に示す、きわめて重要な史料事例である。資永は 在地武士として、荘園・国衙と摩擦を起こす立場にあり、すでに 一族を率いる存在 であった可能性が高い。

木曾義仲追討

治承5年(1181年)、平清盛の死後、平氏一門の当主となった平宗盛は、信濃で挙兵していた木曾義仲の追討を、越後城家に命じた。城資永は当時、越後国を中心に勢力を持つ越後平氏の棟梁であり、都では検非違使(治安・司法を担当する官職)も務めていたことから、平家政権内部でも重視されていた。資永はこの追討命を受け、「甲斐・信濃両国においては、他人を交えず、一身にして攻落すべき由」(甲斐・信濃での木曾義仲との戦いは、他の武将を加えず、私ひとりの指揮で必ず制圧します)と自ら願い出たと伝えられており、『玉葉』などの史料に準拠した後世の伝承でも、資永が北国を代表する武将として平氏方の期待を一身に集めていたことが示唆される。通常、反乱鎮圧は複数の有力武士を動員、互いに牽制させ、権限を分散するのが平家政権の基本であった。にもかかわらず。「他人を交えず」「一身にして」と明言する資永の申し出は、 例外的な全権委任を求めるものであり、 事実上の「方面軍司令官」宣言であった。

資永は越後・会津四郡・出羽南部から軍兵を集め、その数は一万とも伝えられる。「一万」という兵数は誇張を含む可能性はあるものの、少なくとも複数国にまたがる動員自主的編成が可能な、準国家級の軍事基盤を持っていた。検非違使としての官僚的実務経験、平氏一門(維茂流)という血統、そして長年にわたる平家政権への奉仕によって築かれた信頼、すなわち「信用」「家格」「実務能力」の三要素が資永には揃っていた。清盛の死去直後で政権の統制が揺らぎ、各地で反乱が同時多発的するなか、指導力に不安を抱える宗盛にとって、「北国戦線を丸ごと任せられる唯一の存在」と映った可能性が高い。だからこそ、平家は彼の提案を重く受け止め、期待を一身に寄せたのであろう。

しかし、資永は信濃方面への出陣を目前にした2月24日、突然卒中を起こし、翌25日に急死した。この急死は単なる一武将の喪失にとどまらず、平家にとっては北国戦略そのものの崩壊を意味した。相次ぐ反乱への対処に追われていた平家政権にとって、その打撃はきわめて大きかったと考えられる。

死後

資永の死後、越後軍の指導は弟・資職(のち城長茂とも呼ばれる)が継ぎ、横田河原の戦いで木曾義仲軍と対峙した。

瀬波川鮭漁濫行事件概要

① 事件の概要

永万元年、越後国奥山庄(現在の新潟県胎内市周辺)を基盤とする有力武士城資永が、瀬波川(現在の三面川)において、鮭漁を独占あるいは妨害する行為を行ったとして「濫行(らんぎょう)」すなわち不法・不当な実力行使と認定された。これに対し、院(上皇)より正式な命令=院宣が発せられ、資永の行為を即刻停止するよう命じられたのである。

② 瀬波川(三面川)と鮭の意味

瀬波川(三面川)は、荘園領主の私的支配下にある河川ではなく、越後国の国領に属する公的河川と認識されていた。平安時代において鮭は、「保存が利く(干物・塩蔵)タンパク源」、「年貢・貢納品として朝廷に納められるる重要物資」という性格を持ち、単なる食料ではなく「国家財政を支える資源」であった。したがって、国領河川の鮭を私的に独占する行為=国家の収入を侵害する行為と理解され、重大な問題とされた。

③ 院宣の内容とその意味

院宣の趣旨は三点に集約できる。1.瀬波川は国領である→ 私的支配は許されない。2.鮭は国家への重要な貢納物である→ 漁の独占は「公損」にあたる。3.城資永が濫行を行っているとの報告がある→ 停止命令に従わなければ「罪科に処す」。ここで注目するべき点は、軍事力ではなく、法的命令(院宣)によって統制しようとしていることである。これは、院政期における中央権力の統治手法をよく示している。

④ なぜ城資永は「濫行」を行えたのか

この事件は、資永が無法者であったことを示すものではない。12世紀中葉の越後では在地武士が土地・河川・山林を実質支配し、中央の命令が必ずしも即時に及ばず、「慣行」「実力」による支配が常態化していた。城資永は、奥山庄を実効支配し、武力と人的ネットワークを保持する地域社会の実質的支配者であったため、「この川も、ここで獲れる鮭も、 実質的には自分の管理下にある」と考えていた可能性が高い。

⑤ この事件が示す歴史的な意義

朝廷・院政側:「国領・公物は国家のもの」在地武士側:「支配している者が実質的所有者」という 価値観の衝突がはっきりとあらわれている。この時点で城資永は、すでに朝廷から 警戒される存在名前を名指しされるほどの 有力武士であったことがわかる。これは後に、資永の子・孫世代が鎌倉幕府成立期に反幕府勢力として台頭し鳥坂城の戦いへとつながっていく城氏の歴史的展開の出発点と位置付けることができる。

脚注

関連項目

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