天正6年(1578年)、常陸国下妻城城主・多賀谷重経の子として誕生。幼名は虎千代。
多賀谷氏は結城氏と佐竹氏に両属する形で勢力を保っていたが、天正18年(1590年)の小田原征伐の後、天下人となった豊臣秀吉の命令により、結城氏を相続した結城秀康に従うこととなる。これに不満を抱いた父・重経が佐竹氏と結んで離反したため、その後の調整で三経は支城の太田城を与えられて分知。父の後継には佐竹義重の子・多賀谷宣家が養子として入り、三経は事実上、多賀谷家から追放された。
互いに父親の愛情薄い三経の身の上を案じた主君・秀康から御普請与頭に任ぜられ、重く用いられた。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは秀康に従い、上杉家の抑えとして活動。上杉景勝の南下を防いだ功により、秀康は越前に加増転封される。三経もこれに従って越前国柿原(現福井県あわら市柿原)で3万2,000石を領し、加賀前田家や丹羽家の動きを監視する重要な地を任された。家臣団は200名ほどであり、僅かな期間の統治ではあったが、館を構えて城下町を形成し、領内に溜池をいくつも作り、農作の安定を図ったと伝わる。知行地の館とは別に、秀康の本城である北の庄城(福井城)の城下、郭内の重要な場所に、かなりの大きさの屋敷を与えられている。
慶長12年(1607年)に主君・秀康が病死すると、3ヶ月後の7月21日、その後を追うかのように病死した。享年30。