1882年(明治15年)九条道孝の三女として生まれる。妹は、大正天皇の后である貞明皇后(九条節子)である。11歳のとき大谷光瑞(当時17歳)と婚約し、西本願寺に住むこととなる。光端の妹、大谷武子(のち九条武子)とは、そのころより大変仲がよかったといわれている。6年後、17歳で結婚し、西本願寺裏方、および仏教婦人会総裁となる。
1900年、甲斐駒蔵・和里子夫妻が開いた私塾「文中園」(同年「文中女学校に改称)を西本願寺が支援することとなる。1910年、甲斐夫妻が西本願寺・仏教婦人会連合本部より経済援助を受け、矢部善蔵が創立した「京都高等女学校」を買収し、文中女学校を合併すると、仏教婦人会連合本部は、京都高等女学校の経営を甲斐夫妻より委託され、京都高等女学校の経営主体となった。籌子は京都高等女学校の名誉校長となり、経営に尽力したが、翌1911年に30歳で急死した。