幼少の頃より活発な少年であり悪戯好きであったが、小学校1年生頃に、他所の庭になっていた柿を採ったのが家主に見つかってしまい、
学校に通報する代わりに家の手伝いをさせられたという。その家主こそ、皇刀軒流の創始者である梶原政美であった。
剣術の具体的な技の指南などはあまりなかったようだが、兜割りや真綿切り、天井の縁に手の指と足の指だけで蜘蛛のようにぶら下がるなど、
数々の常人離れした技を見せてもらった衝撃や、日々の手伝いで培われた相手の先を読む気配りなどの大切さが、後々の武道人生の礎となっている。
中学生、高校生になると、部活も掛け持ちで動き回る忙しい日々であったが、こと水泳の高飛び込みに関しては、オリンピック強化選手にまで上り詰める。
社会人になり、皇刀軒流を続けていたものの、思うように斬れずに剣を握ることもやめた時期もあったが、
1988年から1995年にかけて幾度となく山籠もりをして自問自答を繰り返す中で、岡本太郎の芸術・言葉に出会ったこともきっかけとなり、人生を武道に捧げることを決心する。
当初は人に教えるつもりはなかったが、知人が護身術を教えて欲しいといったことがきっかけで、日本剱武道中道流武門会として公共施設を中心に活動を開始。
そして、学研から発売されたVHS「奥伝 大東流合気柔術」を見て、本物の武道家が存在していることに感激し、
監修・指導を行っている大東流合気柔術六方会宗師である岡本正剛に師事すると同時に六方会福岡支部として活動開始。
(活動開始をして間もない白帯の頃に、岡本宗師がモデルとなった映画「AIKI」の福岡での上映会の演武を突然任され、多数の観客に技をかけたというエピソードもある)
普段の稽古には参加できないため、岡本宗師の手に触れられるのは年1、2回の東京セミナーでのみであったが、必死で習った感覚を残しつつ、上記VHSも擦り切れるまで何度も見たという。
福岡セミナーで毎年岡本宗師を招聘するようになってからは機会も増え、お互いに酒好きであることでさらに親交を深め、酒の席でかけてもらった技がとても勉強になったと述懐している。
大東流の理合は剣術が基本だということを悟ってからは、2010年に五段位を拝受する。
その後、期することあって六方会を離れ、大東流合気柔術と日本剱武道中道流剣術を統合して、合気柔術と剣術の理合の共通性、
日本本来の武道と精神を取り戻し、後世に遺すことを目的に日々活動している。
武道以外にも、医学や日本の歴史など様々な分野に造詣が深く、また道場の内装や配管などのほとんどは自分で行うほど手先が器用である。