宋金剛
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武徳二年(619年)、易州(現在の河北省易県)を根城としていた農民反乱軍の首領・宋金剛は、一万を超える兵馬を擁し、魏刀児と連携していた。魏刀児が竇建徳に滅ぼされると、救援に向かった宋金剛も竇建徳に敗北した。宋金剛は四千の兵を率いて西へ逃れ、劉武周に身を寄せた。劉武周は宋金剛の用兵の才を聞き知り、その到来を大いに喜んで「宋王」と称し、軍事の全権を委ねるとともに、自らの財産の半分を与えた。宋金剛も深くこれに応え、元の妻を離縁して劉武周の妹を娶り、劉武周に晋陽(現在の山西省太原市)を攻略して南進し天下を争うよう進言した。劉武周は宋金剛を西南道大行台に任命し、三万の兵を授けて并州に侵攻させた。7月25日、宋金剛は浩州を侵犯したが、10日後に撤退した。
武徳二年(619年)9月、唐朝の右僕射・裴寂が介休に派遣され反乱軍鎮圧にあたると、宋金剛は城郭に拠って抵抗した。裴寂が度索原(現在の山西省介休市東南、介山の麓)に布陣すると、宋金剛は唐軍の水源を断ち切った。兵士たちは渇きと疲労に苦しみ、裴寂が水場に近い場所へ陣地を移す隙に、宋金剛は攻勢をかけ、裴寂軍は潰走してほぼ全滅した。晋州以北の城邑はことごとく陥落したが、西河だけは持ちこたえた。宋金剛は姜宝誼を捕虜としたが、姜宝誼が唐朝への脱走を企てたため、処刑した。
劉武周が太原を占領した後、宋金剛に命じて晋州(州治は現在の山西省臨汾市)を攻撃させこれを陥落させ、唐朝の右驍衛大将軍・劉弘基を捕らえた(劉弘基は後に脱走して唐朝に帰還)。宋金剛はさらに絳州に迫り、竜門(現在の山西省河津市)を陷落させた。
10月、宋金剛は浍州(州治は翼城、現在の山西省)を攻撃して陥落させ、その軍勢は非常に強盛であった。裴寂は性格が臆病で将帥の才がなく、ただ虞州・泰州の住民に堡塁に立て籠もるよう使者を繰り返し急がせ、彼らの蓄えを焼却したため、住民は恐慌状態に陥り、怨嗟の声が高まって賊となる者も現れた。夏県(現在の山西省夏県)の住民・呂崇茂は徒党を集めて自ら魏王を称し、劉武周に呼応して討伐に来た裴寂を撃破した。
11月、唐の高祖李淵は秦王李世民を派遣し、黄河が堅く凍結した機に乗じて竜門から渡河させ、柏壁に駐屯させて宋金剛と対峙させた。当時、黄河以東の州県は掠奪を受けて倉庫に物資がなく、住民は侵擾を恐れて堡塁に集住していたため、物資を徴発できず、唐軍は兵糧不足に陥っていた。李世民は王教を発布して住民に諭し、その到来を聞いた住民は次第に帰順する者が増え、唐軍は徐々に食糧を徴収できるようになり、兵糧は充足した。李世民の本軍は堅固な陣地を守って決戦せず、別働隊のみが機会を窺って遊撃したため、宋金剛の勢力は次第に衰えていった。
12月、唐朝の永安王李孝基は于筠らの進言を容れて呂崇茂を攻撃した。呂崇茂が宋金剛に救援を求めると、宋金剛は配下の将軍・尉遅敬徳と尋相に命じて迅速に夏県へ援軍に向かわせた。李孝基は腹背に敵を受けて敗北し、独孤懐恩、于筠、唐倹、劉世讓らともに宋金剛の捕虜となった。
武徳三年(620年)正月、宋金剛は絳州を包囲した。 4月、劉武周が幾度か浩州を攻撃したが、いずれも李仲文に撃退された。宋金剛軍の食糧が尽きた4月14日、宋金剛は北へ敗走し、唐軍はこれを追撃した。唐軍は雀鼠谷で宋金剛軍に追いつき、一日に八度交戦して全て勝利し、数万を斬首・捕虜とした。4月23日、唐朝の陝州総管・于筠が宋金剛のもとから脱走して唐軍の陣営に帰還した。李世民は軍を率いて介休へ進軍した。宋金剛にはなお二万の兵がおり、城の西門から出て城壁を背に陣を布き、南北に七里にわたった。李世民は総管の李世勣(李勣)に攻撃を命じたが、戦況は不利でやや後退した。宋金剛が逆襲に転じた隙に、李世民は精鋭の騎兵を率いて宋金剛の背後を衝き、宋金剛軍は大敗して三千人が斬られた。宋金剛は馬で逃走し、李世民は数十里にわたって追撃した。
劉武周は宋金剛の敗報を聞き、大いに恐れて并州を放棄し突厥へ逃げ込んだ。宋金剛は敗残兵をまとめて再戦を図ったが、兵たちは彼に従って唐軍と戦おうとせず、やむなく宋金剛も百余名の騎兵を連れて突厥へ逃亡した。 間もなく、宋金剛は挙兵当初に拠点とした上谷へ戻ろうとしたが、突厥兵に追いつかれて捕らえられ、腰斬の刑に処せられた。
伝記資料
- 『資治通鑑·卷一百八十七』
- 『資治通鑑·卷一百八十八』