東京出身。明治初期に下士官養成機関である兵学校に入学するが、1872年(明治5年)の兵学校廃止に伴い、陸軍教導団へ編入。翌1873年(明治6年)に除隊した。
1874年(明治7年)、文部省に出仕し、長崎師範学校に勤務。その後、東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)や東京師範学校(現・筑波大学)にて数学の教鞭を執った。
明治18年から23年(1885年 - 1890年)頃、日本国内では急激な欧化主義が流行し、官立の女子教育機関においても男子同様の教育や、洋装、ダンスの推奨、寄宿舎のベッド化といった生活様式の洋風化が進んだ。
宮川は、当時の日本の社会風潮(男尊女卑など)や実情を鑑み、極端な洋風化に疑問を抱いた。1886年(明治19年)、宮川は東京女子師範学校を辞し、鳩山春子、永井久一郎(永井荷風の父)、服部一三、手島精一、渡辺辰五郎ら34名と共に、私立の「共立女子職業学校」を創設した。同校は、女性が自立するための技能を身につけることを目的としており、宮川は以後、同校の教育に専念した。
1916年(大正5年)、同校の校長に就任した。
実業家としての側面も持ち、中央堂や大日本図書出版会社の経営に携わった。また、専門であった数学に関する著書や翻訳書を多数遺している。