寺田錫類

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寺田 錫類(てらだ やすよし/しゃくるい、嘉永6年(1853年)生 – 明治38年(1905年6月2日)は、明治期の大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍歩兵大佐日清戦争日露戦争に従軍し、旅順攻囲戦・二〇三高地の戦いで重傷を負い、戦傷死した。通称順之助

寺田錫類は、金沢藩士・寺田正明の次男として生まれ、母は五百子である[1]。次兄の北村雄平は軍医であった[1]。旧藩士の子として明治新政府の軍制改革期に軍人の道を選び、幼年学校・兵学寮を経て将校となった。

明治3年(1870年)、陸軍幼年学校(大阪青年寮)に入学し、のち兵学寮に学んだ[2][1]。明治5年(1872年)3月、少尉心得となり、明治7年(1874年)5月には少尉に任官し、歩兵第8連隊第一大隊第四中隊第二小隊長となった[1]

明治9年(1876年)には萩の乱に従軍し、翌明治10年(1877年)には西南戦争に参加した[2]。その後、着実に昇進を重ね、明治27年(1894年)には大尉として日清戦争に従軍し、戦功により勲四等を授与されたのち予備役となった[2]

明治37年(1904年)3月、少佐に昇進するとともに日露戦争に召集され、南山の戦いを経て旅順攻囲戦に参加した[2]。戦場での働きが評価され、中佐に進級し、歩兵第1連隊長に就任した[2][3]

明治37年11月、旅順二〇三高地の激戦において胸部に銃創二箇所を受け重傷を負った[1]。負傷後、内地へ後送され、東京渋谷の予備病院で治療を受けたが、明治38年(1905年)6月2日、戦傷がもとで死去した[2][3]。享年53。

死去に先立ち大佐に進級し、正五位勲三等を追叙された[2]

人物・逸話

寺田錫類は「古武士」の風格を備えた軍人として知られ、顔いっぱいに長髭をたくわえ、透き通るような美しい声による号令は練兵場を圧したと伝えられる[4]。また、天照大神の四字を大刀の平に刻み、軍服の上に袈裟を打ち掛けた姿でいつも戦場に臨んだという[4]

家族

脚注

参考文献

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