小松清猷
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文政10年(1827年)1月24日、薩摩藩士・小松清穆の次男として鹿児島城下の小松家の屋敷にて誕生。母は島津久逵の長女。幼名は松壽。
天保7年(1836年)、10代藩主・島津斉興に初お目見えし、藩主の加冠により元服。天保11年(1840年)7月19日、父・清穆の隠居により家督を相続した。天保15年(1844年)1月に詰衆になる。同年11月3日、稲荷神社祭式に付き、流鏑馬を勤める。嘉永元年(1848年)12月、藩主・斉興の命で京都に行く。嘉永2年(1849年)12月、當番頭、奉者番に就任。嘉永4年(1851年)5月8日、江戸幕府より鶴を拝領、かつ斉興の子・島津斉彬の家督につき帰国の御礼使を務める。嘉永5年(1852年)、鹿児島城下に帰ると6番御小姓組番頭になる。ひき続き當番頭、奉者番も兼任。 嘉永6年(1853年)には清水郷(現在の霧島市国分清水町他)地頭に就任。同年に1番小姓組番頭に就任し、同年12月には御軍役惣物頭取も兼任した。また、御近習通御軍役方相図の太鼓役兼職した。
島津斉彬の命にて赴任した琉球(現在の沖縄県)において、安政2年(1855年)死去。
家督は喜入領主・肝付兼善の三男・尚五郎(後の小松清廉(帯刀)が跡目相続し、宮之原主計通哲の養女になった清猷の実妹・小松近が嫁いだ。明治2年(1869年)4月7日、遺骨が琉球より戻り、小松家代々の菩提寺吉利郷の曹洞宗清浄山園林寺に埋葬された。