Wikiwand AI

小柳司気太

日本の中国文学者、道教の研究者 From Wikipedia, the free encyclopedia

小柳 司気太(おやなぎ しげた、1870年12月24日明治3年11月3日[2]- 1940年昭和15年)7月18日)は、日本の中国文学者、道教の研究者。新潟県出身[信頼性要検証]東京帝国大学選科修了。旧姓は熊倉[信頼性要検証][3]

生誕 1870年12月24日
日本の旗 日本 長野県小県郡諏訪部村(現・上田市常磐城二丁目、三丁目)、ただし表向きは新潟県中蒲原郡(現・新潟県新潟市西蒲区)あるいは新潟県三条市上保内[1]と公称
死没 (1940-07-18) 1940年7月18日(69歳没)
国籍 日本の旗 日本
出身校 東京帝国大学選科修了
概要 人物情報, 生誕 ...
小柳 司気太
人物情報
生誕 1870年12月24日
日本の旗 日本 長野県小県郡諏訪部村(現・上田市常磐城二丁目、三丁目)、ただし表向きは新潟県中蒲原郡(現・新潟県新潟市西蒲区)あるいは新潟県三条市上保内[1]と公称
死没 (1940-07-18) 1940年7月18日(69歳没)
国籍 日本の旗 日本
出身校 東京帝国大学選科修了
学問
研究分野 中国文学
道教の研究
研究機関 旧制山口高等学校
学習院大学
國學院大學
慶應義塾大学
大東文化学院
学位 文学博士(1921年)
主な受賞歴 勲六等瑞宝章
テンプレートを表示
閉じる

公式の略歴

越後国中蒲原郡小吉村(現・新潟県新潟市西蒲区)で、熊倉玄周の子として生まれる。父の死後、母方の叔父・小柳卯三郎の養子となる[4]1885年粟生津村の私塾長善館に入門。1888年に上京。東京英語学校に入学するが、病気により一時退学、帰郷[4]1894年東京帝国大学漢学科選科修了[3]藤田精一らと東亜学院を設立[5]し、月刊誌『東亜説林』を刊行する[4]。その後、広島尋常中学校教諭[6]真言京都中学校教諭を務める。1898年旧制山口高等学校教授[7]1904年学習院教授[8]1921年に「朱子哲学ノ研究」により文学博士を授与される[9]1922年國學院大學教授、慶應義塾大学教授[3]1926年大東文化学院教授[3]となり、1940年、大東文化学院学長となるが、逝去。墓所は多磨霊園

非公式の略歴

長野県小県郡諏訪部村(現・上田市常磐城二丁目、三丁目)の被差別部落に生まれる。幼名は熊太郎。父の小右エ門が絶家を再興して小柳姓になり、のちに退隠。このため長男の熊太郎が相続して小右エ門を襲名。その後まもなく新潟県古志郡草生津町(現・長岡市)に転籍、司気太と改名[10]。この話は若宮啓文も『ルポ現代の被差別部落』で紹介している。塩田地区同和教育研究会歴史編集委員編『部落の成立と解放への歩み : 塩田を中心として』の中で「差別のなかに強く生き抜く人」と讃えられている。

係累

甥(孫という説もある[11])の小柳幸郎は日本スポーツ出版社の創業者で『ゴング』誌の生みの親[12]。幸郎の弟の横山東洋夫は1970年代にジャクソン5などを日本に招いたプロモーターである。

栄典

主要編著書

  • 『宋学概論』(哲学書院、1894年
  • 『東洋史綱要』哲学館 1898
  • 『普通道徳新論』林平次郎ほか 1902
  • 『定本韓非子詳解』明治出版社 漢文註釈全書 1920
  • 『道教概説』世界文庫刊行会 1923
  • 『老荘哲学』甲子社書房 1928
  • 老子新釈』弘道館 昭和漢文叢書 1929
  • 『新修漢和大字典』博文館 1932
  • 『東洋思想の研究』正続 関書院 1934-38
  • 『満洲観感記』東亜民族文化協会パンフレツト 1934
  • 『老子講話』章華社 1934
  • 『道教の一斑』東方書院 日本宗教講座 1935
  • 『老荘の思想と道教』関書院 1935

共編著

  • 逍遥遺稿』宮本正貫との共編(非売品、1895年
  • 『詳解漢和大字典』服部宇之吉共著 冨山房 1916
  • 十八史略鈔』編 修文館 1932
  • 『白雲観志』編 東方文化学院東京研究所 1934 国書刊行会 1986
  • 孟子鈔』編 東京修文館 1938

翻訳

  • 『道教聖典』飯島忠夫共訳 世界文庫刊行會 1923 心交社 1987

関連書籍

  • 村山吉廣『漢学者はいかに生きたか』大修館書店、1999年。ISBN 9784469231588
  • 村山吉廣 監修『近世之醇儒小柳司氣太』小柳司氣太博士顕彰記念誌編纂委員会編 新潟県西蒲原郡中之口村 1999

関連項目

脚注

外部リンク

Related Articles

Timelines

Top Qs

Fact Checks