己斐直之
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己斐 直之(こい なおゆき)は戦国時代の武将。父は己斐宗瑞。安芸武田氏家臣。己斐城主。祖は厳島新領衆で、安芸神領衆の一人。直之の名は当時の一次資料には見られず、『陰徳太平記』などに「己斐豊後守直之」との記載があるほか、もしくはいくつかの古文書に名のある「己斐秀盛」に同一人物の可能性が指摘されている。
天文2年(1533年)に、主家の安芸武田氏と対立した熊谷信直の本拠である三入高松城の攻撃に参加するも敗れる。天文9年(1540年)には安芸武田氏当主の武田光和が死去し、家中は分裂、騒乱状態に入る。『陰徳太平記』によると、品川左京亮ら主戦派と対立した直之は、品川勢が香川光景の居城・八木城を攻める中己斐城に自ら火を放ち、阿曽沼氏を頼り逃亡したとされる。
その後佐東銀山城の戦いや月山富田城の戦い、神辺合戦に大内氏や毛利氏の配下として参加した。天文18年(1549年)2月に毛利元就が吉川元春と小早川隆景を引き連れて山口の大内義隆に面会した際には、元就に付き従う随員として同行した。
天文23年(1554年)、大内義長・陶晴賢と断交(防芸引分)した元就は佐東銀山城、次いで己斐氏かつての居城己斐城を落城させる。『陰徳太平記』に拠れば、この当時直之は陶氏の配下にあり桜尾城の城番であったところ、元春の説得に応じ開城。翌・天文24年(1555年)の厳島の戦いまでの間に、同じく毛利軍に降った新里宮内少輔(坪井元政)らと共に厳島宮尾城に入城したとされる(直之らの入城を河合 (1984)では天文23年、森本 (1988)では同24年としている)。合戦の約1週間前に上陸した陶・大内の大軍を相手に寡兵にて籠城、毛利軍本隊上陸まで持ち堪えた。厳島の戦いの後、隠居した。