広東十三行
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起源
公行の結成
1720年(康熙59年)、海関監督は数十家の牙行(仲買商)のうち有力な16家を選び、そのうち5行に対しては貿易額の全額を、6行に対しては貿易額の半額を、残りの6行に対しては貿易額の4分の1の責任を負わせ、さらには、新たに加入しようとするものに対しては1千両を支払って第三の6行に加えようとした。東インド会社の記録によると、この時を以て公行の成立に至るとされている。しかし、この制度は多くの牙行の反対にあい、翌年には解散を余儀なくされた。
1726年(雍正4年)、海関監督兼広東巡撫である楊文乾は、雍正帝の許可を得て、再び有力な牙行6家を選んで外国貿易を独占させ、関税収入を確実にしようとした。ここで指定された6家は保商と呼ばれ、監督に対する責任を負った。また一般の牙行は彼らの保障のもとで貿易に参与した。
1757年(乾隆22年)、外国との貿易港が広州一港に限定されるが(詳細は広東システムを参照)、保商による貿易の独占は続く。
1760年(乾隆25年)、広州の牙行を外洋行(ヨーロッパ船担当)、本港行(タイ船担当)、福潮行(潮州船・福建船担当)に分け、同文行の潘振成を中心として、新たに9行を外洋行として組織させた。外洋行は関税や貿易に連帯で責任を負い、外交交渉までも担当するようになった。『粤海関志』の記載によれば、この時を以て公行の成立に至るとされている。
盛衰
その他
主な公行
- 怡和行の伍氏(Howqua)
- 1783年に伍国瑩が創業。1803年に伍秉鑑(伍敦元)が後を継ぐと、彼の経営のもとで広州における最も成功した商会のひとつとなり、同文行に代わって十三行の領袖となった。またイギリス東インド会社の最大の債権者でもあった。このことから伍家の資産は2,600万銀元にまで達した。怡和行の繁栄は西洋においても高い名声を得ていたため、ジャーディン・マセソン商会は1842年に中国語名を従来の「渣甸洋行」から「怡和洋行」としている。
- 広利行の盧氏(Mowqua)
- 同文行の潘氏(Puankhequa)
- 東興行の謝氏(Goqua)
- 天宝行の梁氏(Kingqua)
- 興泰行の厳氏(Sungqua)
- 中和行の潘氏(Mingkua)
- 順泰行の馬氏(Saoqua)
- 仁和行の潘氏(Puanhaekwanqua)
- 同順行の呉氏(Samqua)
- 孚泰行の易氏(Chingqua)
- 東昌行の羅氏(Lamqua)
- 安昌行の容氏(Takqua)
参考文献
- 増井経夫『清帝国』(講談社 1974年)
