系図には庄資政の後に名が記されているが、実父は庄資氏(幸山城2代城主)と見られ、資政(資氏の弟)は義父と考えられる。資氏と資政は、共に南朝に属して活躍した武将である。資昭の子息は、庄氏貞と庄資定が見られる。系図に「資定 信濃」とある事から、子息の1人は東へ移住したものと見られる。
系図の記述によれば、永和3年(1377年)に朝鮮国使が来た時、足利義満の執事である細川右京大夫よりの被命で、馳走役になったとある。明徳3年(1392年)に南北朝廷が和睦し、南帝が入洛すると、義満により供奉の将となる。また、応永23年(1416年)の上杉禅秀の乱の時には、畠山満家(尾張守)に従軍した功があると記されている。
別系図の伝承によれば、「後時資(ときすけ)」とあり、庄時資に改名したと見られる。また、資昭の曾孫の代までは猿掛城主とあり、それ以後は松山城主と記されている。