本来百済の比象県であったが、757年(景徳王16年)庇仁に直されて西林郡(現在の舒川郡)の属県とし、1018年(顕宗9年)嘉林県(現在の林川)に属して後に監務を置いた。1413年(太宗13年)県監を置き、1895年(高宗32年)昇格して郡となり、1914年の行政区域改編の際、舒川郡に合わせて庇仁面となった。
ここは朝鮮時代に海上交通と軍事上で重要な場所だった。全羅道・慶尚道地方の税穀船が通る交通の要地であり、1655年(孝宗6年)藍浦の広巌にあった馬梁鎮をここの都頓串に移し、水軍僉節制使を置いた。ここには常備軍である留防軍があった。
英祖の時はここに済民倉を設置し、3万石の米を備えた。1419年(世宗元年)5月、50余隻の倭船が庇仁県都豆音串を侵攻して庇仁城を包囲したが、朝廷が大規模な兵力を出動して倭寇を撃退させた[1]。