康茂才
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朱元璋との出会い
元朝の支配力低下や度重なる天災のため、中国南部地方は盗賊や暴徒が跋扈する地となっていた。長江中流域北岸で盗賊同然の行動をしていた朱元璋軍は、至正16年(1356年)、食糧を求めて長江を渡り、元朝が支配する太平(安徽省当塗県)を占領する。一方、康茂才は地元の民間水軍出身で、この時には元朝に味方して水寨元帥の地位をもらい、太平北東の大都市、集慶(江蘇省南京市)を守っていた。康茂才は、陳埜先と共に太平の奪還を試みるが、かえって朱元璋軍の徐達に撃退されてしまう。朱元璋軍は次いで采石(安徽省馬鞍山市雨山区)、集慶を攻撃し、占領する。康茂才は降伏して朱元璋の部下となった。朱元璋は集慶を応天府と改名し、拠点とした(後の明朝の首都もこの地となった)。
集慶の農政にあたる
康茂才は朱元璋から都水営田使に任ぜられ、戦争で荒廃した応天府の農業再興にあたった。
陳友諒を騙す
この時、太平(および応天府)の南西には、大軍閥の頭領、陳友諒がいた。至正20年(1360年)、陳友諒は大軍を率いて朱元璋の領土を襲撃し、太平を奪い、応天府に迫った。朱元璋は康茂才が陳友諒と知り合いであると知り、康茂才に対し、陳友諒に寝返るふりをするよう命じた。
康茂才は陳友諒に対し「江東橋という木の橋で落ち合った上で、朱元璋を襲撃しよう」と呼びかけたところ、陳友諒はまんまとこの策略に乗せられた(明史には書かれていないが、応天府の手前にある江東橋を破壊し、水軍で侵入しようということだったらしい)。
朱元璋はひそかに江東橋を石で作り変え、背後の竜湾という地に伏兵を置いた。攻撃してきた陳友諒は江東橋が作りかえられているのを見て驚き、「老康(康先生)」と連呼するも康茂才からの返事がなく、撤退を決意する。しかし朱元璋の伏兵に包囲され、さらには康茂才も軍を率いて陳友諒を襲撃したため、陳友諒は大敗してしまう。康茂才は朱元璋から、莫大な褒美をもらったという。
陳友諒を攻める
張士誠を攻める
北伐に参加する
中国南部をあらかた占領した朱元璋は、洪武元年(1368年)に元朝を攻撃するため、大軍を北に向かわせた。康茂才もこれに従軍し、汴、洛の占領に貢献した。その後は陝州の防御を命じられ、兵站確保や渡軍用の浮橋造営にあたった。
さらに洪武3年(1370年)にも従軍し、定西、興元(漢中市)を下したが、その帰路に死去した。死後、蘄国公に追封され、武康の名を諡られた。
息子の康鐸は、父の功のため蘄春侯、1500石を与えられたが、傅友徳と雲南地方へ従軍中に数え23歳で死んだ。蘄国公に追封され、忠愍の名を諡られた。
孫の康淵は幼かったため、すぐには後を継ぐことはできなかったが、弘治の末に康茂才の録千戸を譲り受けた。
参考文献
- 上記の記事は、ほぼ、明史・康茂才伝による。
- 川越泰博著『明史』(中国古典新書続編28)明徳出版社、2004年 ISBN 489619828X
- 呉晗著、堺屋太一訳注『超巨人・明の太祖朱元璋』、講談社文庫、1989年 ISBN 406184556X