恒屋盛服 From Wikipedia, the free encyclopedia 恒屋 盛服(つねや せいふく、安政2年〈1855年〉- 1909年7月19日)は、明治時代の国家主義者。朝鮮通として知られた。 陸奥国白河郡の白河藩家老恒屋甚兵衛盛庸と、母は源(田村延世二女)の長男として生まれる。恒屋家の8代目当主。兵庫開港要求事件の処分により、藩主阿部正静とともに棚倉藩に移る。父は維新後も麻布区霞町の阿部正功子爵邸の家扶を務めた。 盛服は紀尾井坂の変に連座し投獄されたが、許され官吏となる。日清戦争が勃発すると、亡命中の朴泳孝とともに朝鮮に渡り、朝鮮の内政改革に関与した。東亜同文会の幹事を務め、頭山満らと国民同盟会を組織し、日露戦争開戦を唱えた。明治42年7月19日心臓病により自邸にて死去。享年55歳[1]。戒名は覈法院幽誉玄道清節居士。墓所は青山霊園立山墓地。 家族 妻 キミ 長男 漸(軍事研究家) 義弟 木村壮介(海軍軍医中将) 脚注 ↑ コトバンク 恒屋盛服 Related Articles