文成公主
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略歴
634年、吐蕃は唐に対し公主を迎えたいと申し出た。しかしこのときは吐谷渾の妨害にあって実現しなかったため、638年にソンツェン・ガンポは吐谷渾へ兵を送って攻撃し、 松州(現四川省松潘県)に迫った (松州の戦い)。しかし、唐に敗れた。 その後、再び太宗のもとへ求婚の使者を送り、唐は640年に文成公主を送った。
公主は、ソンツェン・ガンポの息子であり当時王位にあったグンソン・グンツェン(在位:641年 - 643年)の妻となった。642年に王子マンソン・マンツェンをもうけたが、その翌年にグンソン・グンツェン王は落馬が原因で急死した。公主はラサにラモチェ寺を建て、唐から取り寄せた釈迦牟尼像を祀って夫の菩提を弔った。
夫の死から3年後、文成公主はグンソン・グンツェン王の死によって再び王位についたソンツェン・ガンポ王と再婚した。再婚までに3年の期間があるのは、喪に服していたためと考えられる。
ソンツェン・ガンポ王との結婚生活は649年の王の死によって、わずか3年で終わりを迎え、マンソン・マンツェン(在位:650年 - 676年)が即位した。マンソン・マンツェンの死後、680年頃に逝去。
脚注
注釈
出典
参考文献
- 山口瑞鳳『チベット 下 改訂版』東京大学出版会、2004年。ISBN 978-4-13-013049-3。
- ロラン・デエ 著、今枝由郎 訳『チベット史』春秋社、2022年。ISBN 9784393118245。