壬申の年(672年)の7月22日、壬申の乱の戦況は大友皇子に不利となり、都である近江大津宮のそばまで村国男依らの敵軍が押し寄せた。皇子は群臣を従え自ら出陣し、瀬田の橋の西に陣取って東からくる敵を迎え撃った。戦闘は川を隔てて矢を飛ばしあう射撃戦となった。このとき智尊は先鋒の将となり、精兵を率いて瀬田の橋を守った。橋の中を三丈切断して、長い板を一つおき、これに綱を結びつけた。もし板を踏んで敵が渡ろうとしたら、すぐに綱を引いて落とそうというのである。敵軍はしばらく進めなかったが、やがて大分稚臣が進み出て、鎧を重ね着して突進し、板を渡って綱を切った。これを見た軍勢は乱れて逃げ出した。智尊は刀を抜いて退く者を斬ったが、止めることができなかった。かくして智尊は橋のそばで斬られた。大友皇子は翌日自殺し、壬申の乱は終わった。