朝比奈昌広
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生涯
前半生
家禄500俵の旗本朝比奈昌寿の長男として生まれた[1]。幕府に届け出された公称の生年は文政12年(1829年)[2]、明治政府に届け出された生年月は天保3年(1832年)11月[3]。
弘化3年(1845年)、父が将軍徳川家慶の身辺を世話する小納戸頭取を勤めていたことから18歳(14歳)で小納戸として召し出された[1]。嘉永2年(1849年)、小姓に取り立てられ、家慶・家定の2代の将軍の側近くで仕えた[4]。
嘉永4年(1851年)、従五位下山城守に叙任[5](のち伊賀守、ついで甲斐守に改める[注釈 1])。安政5年(1858年)、家定の死去に伴い中奥小姓に転任した[6]。
幕末
文久3年(1863年)、歩兵頭となり、京都に駐留[7]。長崎奉行を経て慶応元年(1865年)に外国奉行となり、翌2年(1866年)8月25日、同役の柴田剛中らとともに日伊修好通商条約に調印した[8]。
慶応3年(1867年)、外国惣奉行並に昇進し、 江戸南町奉行並を兼任。同年12月、薩摩藩の江戸藩邸に匿われた勤王派浪士が騒擾事件を起こして幕府を挑発した[9]。このとき、勘定奉行小栗忠順を中心とする強硬派は、大政奉還後に徳川慶喜が大坂城に追いやられた情勢を踏まえれば、京都で兵を動かさなければ時機を失うので江戸でまず軍事行動を起こすべきと主張して薩摩藩邸の攻撃を求め、幕閣の中にはこれに賛同する者が多かったが、南町奉行の駒井信興と朝比奈昌広は、まずは薩摩藩に賊の引き渡しを要求するべきで、慶喜の命令を受けずに事を決してはならないと説いた。老中は一度は朝比奈らの慎重論を採用したが、強硬派の反対により覆って庄内藩に攻撃命令が下され、12月24日に薩摩藩邸焼き討ちが行われた[10]。
慶応4年(1868年)1月、大目付滝川具挙が薩摩藩邸焼き討ちに至る情勢を大坂城に伝えたことから鳥羽・伏見の戦いが起こり、敗れた慶喜が江戸城に帰還すると、同月18日に勘定奉行に転任され、ついで28日に免職されて寄合となった[11]。
明治維新後
江戸開城後、徳川亀之助の駿府藩(静岡藩)入封に従って駿府(静岡)に移住[1]。家督を息子に譲って名を閑水(かんすい)に改めた[3]。
明治8年(1875年)、新政府に司法官として出仕して大審院七等判事に任命された。神奈川裁判所(のち横浜裁判所)に勤務し、明治12年(1879年)に退官した[3]。
渋沢栄一が明治30年(1897年)に東京に移住した徳川慶喜の許可を得て『徳川慶喜公伝』の編纂に着手すると、取材を受けて手記を提供している[12]。明治38年(1905年)、死去した[13]。
年譜
※日付は明治5年(1872年)までは旧暦
- 弘化2年(1845年)
- 弘化3年(1845年)
- 嘉永2年(1849年)
- 嘉永4年(1851年)
- 嘉永6年(1853年)
- 安政5年(1858年)
- 文久2年(1862年)
- 11月7日 - 父死去により家督継承を許される[17]。
- 文久3年(1863年)
- 元治元年(1864年)
- 慶応元年(1865年)
- 慶応2年(1866年)
- 慶応3年(1867年)
- 慶応4年(1868年)
- 明治8年(1875年)
- 明治9年(1876年)
- 9月25日 - 横浜裁判所在勤を命ぜられる[3]。
- 明治10年(1877年)
- 6月28日 - 官制改変により判事に再任され七等官相当年俸下賜、横浜裁判所在勤[3]。
- 明治12年(1879年)
- 明治38年(1905年)