朝鮮修信使

明治初期に行われた朝鮮から日本への外交使節 From Wikipedia, the free encyclopedia

朝鮮修信使(ちょうせんしゅうしんし)は、明治初期に行われた朝鮮から日本への外交使節のこと。

江華島事件をきっかけとして、日本政府は全権黒田清隆を派遣して1876年2月には日朝修好条規が締結されたが、その際日本側は自国の実情を朝鮮側に見せるために黒田派遣の回礼使の派遣を朝鮮側に要請した。

朝鮮側もこれに応じ、同年5月には金綺秀ら修信使として派遣され、明治天皇外務卿寺島宗則と会見して各地の施設を見学した。1880年にも日本公使派遣の回礼として金弘集らが修信使として派遣され、明治天皇や外務卿井上馨と会見した。翌1881年には外交交渉を兼ねて趙秉縞らが、その翌1882年には壬午事変に対する日本側の「謝罪」要求に応える形で朴泳孝らが派遣された。

修信使の中から朝鮮政界内部に開化派人脈が形成されることになる。

修信使の一覧

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回次 出発日 到着日 修信使 著書
11876年4月4日1876年閏5月7日金綺秀『日東記遊』
『修信使日記』
21880年5月28日1880年8月28日金弘集『修信使日記』
31882年8月8日1882年11月28日朴泳孝
金晩植
『使和記略』
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参考文献

関連項目

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