本庄信明
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安養院の伝え
信明によって創立された安養院の由緒によると、信明の兄である本庄藤太郎行重(雪茂)が入道して「伊安」と称し、院の東南に常陽軒を建てて住み、大山阿夫利神社を遷座し、境内の鎮守としたとされる。当初は領内の富田村に庵室を結び、「安養庵」と称して移住していたが、文明7年(1475年)に上州沼田の奥迦葉山龍華院三世 玉岑慶珠を招き、開山して、「安養院」と改称し、現在地に移したとされる。後世では、徳川家光より25石の朱印地を拝領された(現在、伽藍は本庄市指定文化財となっていて、本堂の方は現在でも「本庄最大の木造建築物」とされる)。なお、由緒の記録では弟藤太郎と記されているが、太郎と言う通称は長男を指すものであり、誤記と考えられる(従って信明も長男である行重の弟と言う事になる)。
信明以前の本庄氏の流れ
信明以前の本庄氏一族の資料・記述は限られているが、15世紀初めの時点では、上杉氏憲(禅秀)(犬懸上杉氏)に味方して、上杉禅秀の乱で敗れ、所領を没収されている事が分かっている。蛭川と阿久原牧(児玉党の基盤となった牧)も丹党の氏族である阿保氏(丹党も禅秀の味方をしたが、阿保氏は足利に属した)の所領となった。先祖が開墾した土地を奪われると言う事は、中世の武士団にとっては屈辱的な事だった。応永25年(1418年)、これに児玉党の本庄氏は抵抗する事となり、西本庄左衛門(入道して西号)は阿久原を押領する事となる。武力で抵抗を続ける本庄氏に対して第4代鎌倉公方の足利持氏は元の領主に返還する様に求めている。禅秀の乱後も武蔵国北部は足利氏の支配に対して抵抗を続けた形となる。また、15世紀中頃の永享12年(1440年)、西本庄左衛門尉が上杉憲実(山内上杉氏)の金田の陣から帰館した旨の記述があり、当時は西本庄の地を所領していたと考えられている(本庄氏系図に、元朝と元翁が左衛門を称している事から、どちらかと考えられている)。本庄氏も結城合戦に参戦していたものと見られるが、文書の内容は、本庄左衛門尉が勝手に帰ってしまったと言うものである。
本庄氏系図(信明に至るまで)
厳密には、本庄氏の系図と見られる姓未詳の系図によれば、以下の流れとなる
加応→元慶(官途名:加賀守)→元朝(左衛門尉)→道祏→元翁(左衛門督)→信明
信明以前の5代を記している。ただ、この系図には謎が多い(解明されていない)部分もある為、公式の場(本庄市関連の書物)では正式採用されていない現状がある。一例として、「元」を通し字としているなど不可解な点が見られる。別の場所への移住や兄弟や従兄を養子に入れたとも考えられるが、研究が進んでいない現状では、断定はできず、研究者による解明が待たれる。
似た様な流れを記述したものとして、『四方田系図略図』がある。こちらの方の記述では、加応の前代を四方田七郎村重としており、元朝も左衛門尉ではなく、左衛門督と記している。信明には、朝茂(官途名:肥後守)と元淸(官途名:丹後守)の2人の弟がいたと記述されている。また、この系図では、本庄行重は、信明の曾孫である本庄実明の弟恭業の子息としている。
姓未詳の系図や四方田系図などから、戦国時代に没落した本庄氏は、姓を隠す(偽る)必要があったのではないかとも考えられる。