松平信敏 (大隅守) From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 江戸時代後期 - 明治時代生誕 不明死没 明治36年(1903年)4月別名 通称:勘太郎、大内蔵 凡例松平信敏時代 江戸時代後期 - 明治時代生誕 不明死没 明治36年(1903年)4月別名 通称:勘太郎、大内蔵墓所 新宿区舟町の西迎寺官位 大隅守、河内守幕府 江戸幕府旗本主君 徳川家茂→慶喜氏族 長沢松平家テンプレートを表示 松平 信敏(まつだいら のぶとし)は、江戸時代後期の旗本。1200石。通称は勘太郎、大内蔵。官名は大隅守、河内守。 文久2年(1862年)6月に目付に任ぜられる。翌文久3年(1863年)5月に大坂町奉行に転任するが、その早々に勘定奉行津田正路および軍艦奉行勝海舟と共に製艦所を神戸に創設するための調査を命じられている。元治元年(1864年)7月、禁門の変の発端となった長州藩兵の大挙上坂の際、その情報を大坂城代松平信古に報告した。慶応元年(1865年)10月、米英仏蘭4国連合艦隊が大坂湾に来航した四カ国艦隊摂海侵入事件の際、同役の井上義斐、目付の赤松左京と共にフランス軍艦キンシャン号を訪れ、来航目的を問うている。 慶応3年(1867年)1月、大目付に任ぜられるが、同年12月には大坂町奉行に再任した。慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いに参加し、幕府軍が敗れた後に元将軍徳川慶喜と共に江戸へ戻った。その直後に勘定奉行に任ぜられたが、僅か在任23日、翌月には免職となり寄合席となった。 参考文献 出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。 記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2021年2月) 日本歴史学会編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年。 宮崎十三八・安岡昭男編『幕末維新人名事典』新人物往来社、1994年。 この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:日本/P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。表示編集 Related Articles