西崎キク
日本の女性で初めて水上飛行機士操縦免許
From Wikipedia, the free encyclopedia
パイロットを目指す
埼玉県女子師範を卒業して小学校の教員となっていたが[2]、生徒を引率して訪れた群馬県太田市の尾島飛行場で飛行機に魅せられ、航空を志す。1931年(昭和6年)、小学校を退職して安藤飛行機研究所に入学[3]、1933年(昭和8年)8月に二等飛行操縦士免許を取得、馬淵テフ子と共に、日本初の女性水上飛行機操縦士となり、10月には一三式水上機を操縦して郷土を訪問するため飛びたった。
1934年(昭和9年)7月、日本女子飛行士クラブを結成[注 1]。同年10月、日本人女性パイロットとして初めて、自ら操縦して海外渡航を行った。名目は満州国建国親善飛行であり、サルムソン2A2型陸上機「白菊号」を操り、途中で故障のため不時着するなどしながら日本海を横断、同時に日本をたった馬淵テフ子と一日違いで目的地に着陸[4]。日本人の女性飛行士として初の海外渡航を実現したのである[注 2][9][10]。その偉業に対して航空関係者を称えるハーモン・トロフィーを受けている。
農業開拓と指導者の道へ
それから3年後の1937年(昭和12年)7月、樺太豊原市(当時)市制施行を記念するため第二白菊号でふたたび女性操縦士の長距離飛行が計画され、西崎がパイロットに選ばれたのだが、津軽海峡で墜落してしまい貨物船に救助される。この年、女性を操縦から遠ざけようとする世情がますますつのってきたことから、飛び続けるために陸軍[注 3]に志願するが、従軍して傷病兵を前線から後方へ移送する飛行などを任されることはなく、空を飛ぶ道を断たれてしまう。年が明けると猪岡武雄と結婚、開拓団に加わって満州に渡ると、現地で小学校に教員として勤めている。ところが猪岡と1941年(昭和16年)に死別、やがて西崎了と出会って1943年(昭和18年)に再婚。
終戦の翌年の1946年(昭和21年)に日本に引き揚げ、郷里の七本木開拓地に入植し、教職につくとおよそ8年間、生徒を教えながら農業に従事した。こうして戦後は教員を務めるかたわら、農業開拓指導に力を注ぎ、また開拓体験記をまとめており、その功績に対して1961年(昭和36年)に農林大臣賞を受賞する[11]。1979年(昭和54年)に死去した[2][注 4]。