松本寿太夫
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松本三之丞は、明確ではないが、万延元年(1860年)の遣米使節参加時に「30歳」と記録されており、1830年前後の生まれとみられる[1]。はじめ三之丞(春房)と称し、のちに松本寿太夫と改名した。幕末には外国奉行支配定役として対外実務に従事し、のちに開成所頭取並、勘定奉行などを歴任したとされ、外交・財政・教育分野をまたいで活躍した高官に位置づけられる。
万延元年遣米使節には「外国奉行支配定役」として随行し、日米修好通商条約批准書交換のための最初の公式訪米団の一員となった[1]。三之丞が非常に嗅覚の発達した男で、どこかでご馳走があると必ず嗅ぎつけて時刻を違えず食堂に現れるため、一行の中で「ボーヒックマン(Beau Hicman)/気の利く田舎者」なるあだ名をつけられたという逸話も記されており、その人柄の一端を伝えている[2]。
文久年間には、幕府が小笠原諸島の領有を明確にし開拓を再開するために行った事業に参加した。文久元年(1861年)、幕府は咸臨丸による調査・実地検分を計画し、外国奉行水野忠徳を中心とする調査団を派遣したが、この一行の中に徒目付として松本三之丞(外国方所属)が含まれていた[3]。文久2年(1862年)4月、任務を終えた千秋丸が江戸へ帰府する一方で、三之丞は小花作之助らとともに父島に残留し、島務を担当したと記録される。彼らは同年4月21日付で、父島のさらに南方にあるとされた「パキアン島」の巡視を行うべきことを幕府に建白し、小笠原諸島の南約二百里に位置するとされた南方島嶼の調査・開拓を提案したが、開拓事業中止の方針のため採用されなかった[3]。
文久3年(1863年)以降、三之丞は江戸の洋学所である開成所に関わり、のちに「開成所頭取並」に昇進したとされる。開成所の知識人交流の中で、のちに郵便制度創設者となる前島密、蘭学者・啓蒙思想家の福澤諭吉らと密接に関わった。慶応2年(1866年)12月、前島密が提出した、漢字を廃しローマ字化を図るべきだとする急進的な建白書『漢字御廃止之議』は、「開成所頭取並・松本寿太夫」を通じて徳川慶喜に奉られたと伝えられ、寿太夫が外交実務のみならず、教育政策や文字政策をめぐる近代化論議においても重要なパイプ役を担っていたことが指摘されている。
慶応3年(1867年)、幕府は装甲艦ストーンウォール号(のちの「甲鉄」「東艦」)などの軍艦購入を目的として、小野友五郎を正使とする遣米使節団を派遣した。この第二回遣米使節(いわゆる小野使節団)では、正使が勘定吟味役・小野友五郎、副使が開成所頭取並・松本寿太夫という編成であったとされ、寿太夫は軍艦購入・財政・外交の交差点に立つキーパーソンとして再び渡米している。滞米中には通訳として随行した福澤諭吉の荷物運賃処理などをめぐり、「荷物運賃の私物混同」を理由とする正式な不都合の訴えを小野と連名で行い、神奈川奉行による荷物差し押さえを求めるとともに、自らも監督責任を負うとして進退伺いを提出している。この際の告発状は後年まで小野家に伝来し、両名連名の文書として現存している[4]。
明治維新の前後、寿太夫の動向には諸説がある。慶応4年/明治元年(1868年)、鳥羽・伏見の戦い以降に旧幕府勢力が劣勢となる中、寿太夫は旧外国奉行の塚原昌義らとともにアメリカ合衆国への政治亡命を図り、サンフランシスコ発の新聞報道などから、同年5月19日に寿太夫とその遺児がサンフランシスコへ到着し、そのまま米国で没したと推定する説がある。一方で、明治7年(1874年)の『郵便報知新聞』には、「曾て米利堅へ脱航し年を経て帰れる松本寿太夫」との記述が見られ、彼が帰国後、静岡県士族として小笠原諸島の事情に通じた人物として紹介されているとの指摘もあり、その晩年の所在や没年は確定していない。
人物像については、『函館游寓名士伝』に詳しい回想が残る。これによれば、寿太夫の出自は明らかでないが、若いころに箱館へ遊歴し、のちに江戸へ出て幕府に仕え、開成所頭取を務めたとされる。ある知人が帰郷後に再び江戸へ上る際、江幡五郎から「寿太夫は旧識であり、近ごろ一書生を招聘したい旨の書状を寄越したので、返書を託すべく訪問してほしい」と依頼され、寿太夫宅を再三訪ねたが会えなかった。後日ようやく対面したところ、寿太夫は盛夏の中、左右に二人の若い婢を侍らせ団扇で扇がせて涼を取り、きわめて傲慢な態度で応じたという。初めて訪ねてきた際に相手を「筑波浪士」と疑って避けていたが、そうではないとわかった以上は訪問してもよい、ただし吏務多忙のため十分にもてなす余裕はない、と述べたうえで、自身の僚属である前島来輔(のちの前島密)が牛籠山伏町に住んでいるから来意を伝えるよう勧めたとされる[5]。回想録の筆者は、その後前島宅を訪れたものの話がかみ合わずに去り、小笠原摂津守の信牌を得て五畿巡遊に出たため、寿太夫や前島を再訪する機会はなかったと記す。その後に伝え聞いたところでは、寿太夫は幕府末期に欧州へ出奔したという[5]。この回想は、寿太夫が若くして地方に遊歴し、のちに江戸で地位と生活のゆとりを得た高級幕臣として、どこか尊大で近寄りがたい雰囲気を漂わせていた姿を生々しく伝えている。
また、明治4年(1871年)に岩倉使節団の伊藤博文がサンフランシスコで、すでに日本語をほとんど忘れていた寿太夫の遺児を発見・保護した話が残っている[6]。
脚注
- 1 2 『万延元年遣米使節史料集成 第二巻』, p. 195.
- ↑ 田中貞一 1917, p. 3.
- 1 2 『八丈実記 第二巻』 1969, p. 291.
- ↑ 藤井哲博 1985, p. 119.
- 1 2 井口兵右衛門 1892, p. 61.
- ↑ 藤井哲博 1985, p. 137.
