板橋造兵廠物資不正分配事件
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事件の発生
1946年(昭和21年)1月20日、同盟が主催する演説会が滝野川西国民学校で行われ、同盟に所属するAが食糧の人民管理を主張し、工場に付設した倉庫に、生活必需品が職業軍人によって不正に隠匿されていると発表した。その後、同盟の主導する人民討議が行われ、「物資の人民管理」および「周辺住民への分配」が決定された。
翌21日Aは、物資発見の情報を日本共産党党本部に報告し、同党の食糧対策委員Bの指示の下、食糧配給を伝える張り紙を掲示するとともに、周辺住民に喧伝した。その結果、同日午後1時ごろには工場周辺に約800人が集合したため、Aら3人が「人民代表」として工場の管理者である経理部長に面会し、保管物資の引渡しを要求した。しかし合意に至らなかったため、Aら3人は経理部長を拘禁し、約7時間以上に渡って吊し上げを行い、引渡しに関する契約書を調印させた。しかし、契約書の作成に時間がかかったため、当日には物資の分配は行われず、集合した住民には物資の引換券を交付させるにとどまった。また、物資の保管および管理は同盟の下に行われるようになった。
翌22日、引換券を入手した住民から「物資配給」の噂を聞いた都民約2000人が倉庫前に集合した。Aらは倉庫内から大豆約350俵、木炭約400俵、皮屑(かわくず)約140俵を不法に持ち出し、各町から物資の受け取りの代表を選び、一世帯あたり大豆1升5合(約2.1kg)の配給を行った。
翌23日、残存する物資の配給を行う予定であったが、GHQが事態を把握し、即日に中止命令を出したため、物資の分配が中止された。