林泰曽
From Wikipedia, the free encyclopedia
幼少期と教育期
林泰曽は福建省 侯官県(現在の福州市)の人で、祖父は林則徐の弟であり、林則徐の娘を妻とした沈葆楨は遠縁にあたった。両親は幼いうちに亡くなったため、幼少期の林泰曽は亡くなった兄の妻に頼っていた。
1867年、林泰曽は沈葆楨が作った福建船政学堂に第1期生として入学し、ここで船の操縦方法を学んだ。1871年に卒業すると練習船「建威」に乗り組んで各地に練習航海を行い、1874年には建威の1等航海士に任命された。翌年、福建船政学堂の主任教官のプロスパー・マリー・ジケルに随伴してヨーロッパを歴訪し、イギリスでは海軍の軍官学校にも入学している。この時の留学はごく短期間で、ジケルが中国に戻る時に一旦は帰国したが、すぐに正式な留学生として改めて渡英した。
1879年に帰国すると、游撃に昇進した。
北洋艦隊
日清戦争
1894年に日清戦争が勃発すると、林泰曽は鎮遠の艦長として従軍した。黄海海戦では鎮遠と旗艦定遠は北洋艦隊の主力として日本軍の連合艦隊の集中砲火を受け、多数の被弾によって火災も発生した。しかし鎮遠は落ち着いて消火して戦線を離脱する事もなかったため、この戦功によって林泰曽は霍春助巴図魯称号を与えられた。この戦いの後、北洋艦隊はその方針を開戦当初の「存在艦隊」に切り替え、残った艦船を威海衛に集中して軽々に出撃しなくなった。
この年の冬[1]、近海を巡回して威海衛に帰港しようとした鎮遠が港口で座礁した[2]。船体の亀裂は10m(三丈)程に渡り、応急修理によって沈没の危険こそ無くなったものの、以前のような高速航行はできなくなった。本格修理を行おうにも旅順のドックは既に日本軍の手に落ちており、北洋艦隊の戦力は大幅に減少した。
林泰曽はこの責任をとって服毒自殺した。
参考文献
- 清史稿 巻四百六十・列伝二百四十七