梁雅子

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死没 (1986-02-20) 1986年2月20日(74歳没)
日本の旗 日本大阪府八尾市
言語 日本語
教育 樟蔭女子専門学校国文学科
梁雅子
やな まさこ
生誕 1911年明治44年)4月22日
大日本帝国の旗 大日本帝国大阪府大阪市
死没 (1986-02-20) 1986年2月20日(74歳没)
日本の旗 日本大阪府八尾市
言語 日本語
教育 樟蔭女子専門学校国文学科
主な受賞歴 第十一回女流文学賞
活動期間 1930年代-1980年代
子供 梁典雄
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梁 雅子(やな まさこ、1911年明治44年〉4月22日 - 1986年昭和61年〉2月20日[1])は、日本の小説家歌人エッセイスト

大阪府安治川出身。実家は鉄鋼商であった[2]。大阪府立市岡高等女学校(現:大阪府立市岡高等学校)、樟蔭女子専門学校国文学科(現:大阪樟蔭女子大学)中退。市岡高女時代の後輩には河野多恵子がいる[3]1931年昭和6年)に結婚し1男2女をもうけた。そのうち長男はノックは無用!のプロデューサーであった梁典雄[注釈 1][2][4]。戦時下は羽曳野市内に疎開[2]

当初は歌人として活動を行っていたが、後に小説家に転向し稲垣足穂に師事する[2]

1960年昭和35年)の第十一回女流文学者賞にて養老院を題材にした『悲田院』が受賞[5]曽野綾子の『たまゆら』や有吉佐和子の『紀ノ川』と争っての受賞であり[2]、初版は6000部を売り上げた[4]。同年には大阪芸術賞を受賞[6]

1961年昭和36年)には前年に発表した『道あれど』を基に田中澄江が脚色、脚本を行った映画『女ばかりの夜』が公開された。

1986年昭和61年)2月20日尿毒症のため八尾市内の病院で死去。享年74[1]

評価

  • 梁と共に稲垣足穂に師事していた山本浅子は梁について「大阪の代表的な中流階級の婦人」と外見を評し、「悲田院」について「彼女の本質と言ってもいい官能性が『悲田院』の世界を支え、作品の生地として定著することに成功している」と評価している[7]
  • 没後の1995年平成7年)、梁の自宅の書庫に置かれていた未発表の長編小説[注釈 2]の『われ餓えたる民』が出版された[2]。1962年から63年ごろに執筆され、大阪大空襲を描いた作品であり、梁の長男の典雄が原稿の存在を作家の阿部牧郎に話したことから出版へと至った[2]。阿部は「銃後にいた家族の風俗を鮮明に描く数少ない貴重な作品」と評価している[2]

著作

歌集

  • 国際文化協会出版部『うづまき : 歌集』1950.11

小説

  • 三一書房『悲田院』1959
  • 三一書房『道あれど』1960
  • 講談社『恋人形』1962
  • 淡交社『浄瑠璃寺・岩船寺・円成寺』1965
  • 淡交社『月の京都』1969
  • 三一書房『まぼろし大江山』1969
  • 朝日新聞社『文五郎一代』1970
  • 星雲社『われ餓えたる民』1995 ISBN 4-7952-8156-4(死後出版)

出典

関連項目

外部リンク

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