享保10年(1725年)、家督200石を継いだ。享保20年(1735年)手廻三番組になり、延享元年(1744年)長柄奉行となった。延享3年(1746年)諸手足軽頭になり、宝暦元年(1751年)持筒二番組足軽頭、用人となり、100石の加増を受け、300石となった。
寛延2年(1749年)に発生した飢饉により、藩の財政が悪化していたため、倹約策を提案し、実現に尽力した。宝暦3年(1753年)正月の用人4奉行会議で、ただ一人倹約策を主張し、勘定所総司となった。12月には山方席及び山役人の引き取りも任されている。強硬で公正な倹約策により藩財政は持ち直したが、要職から遠ざけられた乳井貢などとの関係は悪化した。宝暦6年(1756年)、藩主・津軽信寧が江戸より入部したが、登城せず、自宅へ引き籠った。その理由は定かではない。この間に、義巧に遠ざけられていた多くの人物が復帰した。その中の一人、乳井貢は後に藩財政の立て直しに功績があった。同年12月にお役御免、宝暦8年(1758年)7月に閉門となった。
家督は嫡男・茂粛が継いだ。明和5年(1768年)に閉門を解かれた。