第5代探高の実子として生まれ、文政5年(1822年)に父の跡を継ぎ、20俵5人扶持で江戸詰め絵師となり、文政12年には家業精錬のため10俵加増された。
天保6年(1835年)に探沖と改名したが、天保8年(1837年)に病臥したので、探沖時代の作品は少ない。
児玉渕泉(のちの沖一峨)を養子として迎え、名代として出仕させていたが、天保10年没した。
探容は父探高のほか、鍛冶橋狩野7代の狩野探信守道に師事し、文政10年(1827年)には門人中4番目の席順にあった。探容の作品は、狩野派の謹厳で清浄な作風を守りながらも、大和絵の画風を取り入れ、温雅な詩情あふれるものとなっている。