父の河野通義(みちよし、河野通堯の子)は早世しており、河野氏の家督は叔父(通義の弟)にあたる通之(みちゆき、予州家の祖)が継いでいたが、後に譲られて当主となった。
しかし、持通の相続に不満を持っていた通之の子・通元(みちもと)と対立し、河野氏の家督をめぐる内紛が始まった。この争いは両者の死後も続き、応仁の乱以降まで続くこととなる。
豊後国守護の大友氏内で内紛が発生すると、幕府から反幕府方の大友持直らの追討を命じられ九州に出兵するが、永享7年(1435年)6月29日、豊後姫岳の戦いで持直に敗れて討死した。
持通の死後、河野氏の家督は嫡子の教通が継いだ。だが、教通は惣領の座を狙う通元や、その息子の通春と争っている。