紹聖4年(1097年)8月、先の旧法党政権において糾弾され、配流先にて死去した蔡確の弟の蔡碩は娘婿の文康世より、秘閣校理の劉唐老が旧法派の重鎮文彦博の子である文及甫に対して「政変が起こり、宰相は族滅、執政は晒首、侍従は配流されるだろう」と述べたことを聞かされた。驚いた蔡碩はこれを章惇・蔡卞ら新法派政権の打倒計画であると考え、直ちに蔡卞の兄である翰林学士の蔡京に知らせた。続いて、他の者からも類似の話が報告され、更に新法党政権復活の立役者でありながらその後知河南府に左遷されていた李清臣も関与しているという話が広まった。このため、哲宗は周秩を派遣して劉唐老・文及甫らを取り調べさせたのである。
その結果、劉唐老が現在の政権に不満を持ち、「大臣を誅したい」と発言した事実は確認できたものの、それ以上の具体的な行動は確認されできなかった。更に直後に発生した同文館の獄の方に朝廷の関心が向いたことから、最終的に劉唐老の失言とされ、12月に劉唐老と李清臣が左遷されただけで終わった(ただし、後者は翌年1月に前職復帰が許される)。
洛獄そのものは大した事件ではなかったものの、同事件に関連して訴え出た蔡碩の取り調べが同文館の獄のきっかけとなるなど、その後の新法党による旧法党弾圧に大きな影響を与えた。