淘宮術
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江戸幕府の御家人であった横山丸三は家族の不幸を機に同僚の天源学者である奥野清次郎(号:南卜(なんぼく))から運命論である天源術を学び奥義を極めた。その間に「もしも人生が天源術のいうようなものならば、人は授けられた運命のままで、なんら変化せず向上発展は望みがたい。むしろ進んで精神を修養し、気質の偏りを正すことによって得られる本心の啓示に従うことによって、人それぞれの本来の性能を発揮して運命を改善するべきである」という考えに至り、自身の体験から修養の効果を確信して「天源淘宮学」の名で公表した。11年後の弘化2年にはこの修養方法が学問ではなく、実践のための術であることを示すため、名称を「開運淘宮術」に改めた。嘉永元年(1848年)には入門者が1000人を超す勢いであったが、当時は開国をめぐり世情不安定な時期であったため、幕府は神道・儒教・仏教以外は異教を説くものとし、淘宮術も布教を禁じられた。しかし6人の高弟のうち特に佐野量丸(かずまる)、青木十丸(そがん)、新家春三(はるみつ)、飯田勝美(かつみ)の4皆伝がこの術を伝承し、明治時代に入って上記の禁は解けたため、それぞれ会派を成して後継者を育成した。当初は政府の指導により教派神道神道大成教傘下の講社として活動していたが、昭和19年に全会派を統合した社団法人日本淘道会が当時の文部省の認可を受けて設立され、以後同会(現在は一般社団法人)により淘宮術の伝承・普及が続けられている。「淘道」という用語は淘宮術を学び、実践することをいうが、「淘宮術」と同じ意味にも用いられている。